覚え書:「今週の本棚:村上陽一郎・評 『知識の社会史2 百科全書からウィキペディアまで』=ピーター・バーク著」、『毎日新聞』2015年10月11日(日)付。

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今週の本棚:村上陽一郎・評 『知識の社会史2 百科全書からウィキペディアまで』=ピーター・バーク著
毎日新聞 2015年10月11日

 (新曜社・5184円)

 ◇知識の様態追った興趣溢れる読み物

 四百ページを優に超える大著である。人名索引では、立項された数は八百人を下らない。おまけに、著者の前著『知識の社会史−−知と情報はいかにして商品化したか』(井山弘幸・城戸淳訳、新曜社)も同規模のものだ。書くエネルギーだけでも(ということは、訳者のそれはさらに大きくなるが)、想像を絶する。前著の原書には「グーテンベルクからディドロまで」の副題があった。今回の副題は「百科全書(つまりはディドロですな)からウィキペディアまで」となっている。その意味では、一応これで完結なのだろう。

 現代は「知識社会」であるとよく言われる。かつてのように、土地だったり、金だったり、ではなく、知識にこそ価値がある。もっとも、フランシス・ベーコンは「知は力なり」の言葉で知られるが、すでに彼は知識の持つ意味を「知って」いたことになる。知識が如何(いか)に社会を変えたか、また社会の変化が人間の知識の様態に如何に関わっているか、こうした点を歴史的に追いかける、それが本書の主題だろう。

 しかし、考えてみるとそれは、人類の歴史そのものでもある。歴史と言えば、政治史、あるいは権力体制の歴史であった時代は去った。ああ、その変化も、知識にフォーカスが当たることの結果の一つかもしれないかしら。しかし、人類史そのものということになれば、スコープが大きくなり、博捜、博覧は已(や)むを得ない。もっとも、イギリス人の著者だから、話が比較的(この形容詞大事ですが)ヨーロッパに限定されるのも已むを得ない。

 ある意味ではとりとめのなくなりそうなこの主題は、しかし著者にかかると、興趣溢(あふ)れる読み物(本書は、研究書であると同時に、啓蒙(けいもう)的な書物でもある)に変貌する。第一部では、史実は山ほど登場するが、歴史というよりは、知識を巡っての諸相、例えば観察、発見、蒐集(しゅうしゅう)、蓄積、評価、拡散などに関しての分析が行われる。そこにも時代相が絡むのは当然である。

 第二部では、最初の章で「知識を失う」という珍しい話題が扱われる。知識に価値が付与されれば、独占や収奪があるのも当然だが、知識の否定的裏面(「無知学」の抬頭(たいとう)も含めて)についても、著者が十分な配慮を払っていることが窺(うかが)われる。もう一つの章は、取り上げる時代から自然なことだが、学問の専門化(英語には「小枝化」という表現があるらしい)が詳述される。「中世と近代初期の大学は学部学生に『技芸(アーツ)』を、上級学生に神学、法学、医学を教えた。この制度は内部で調整できる程度の改革はあったにせよ、本質的には十九世紀まで続いた」という、さりげない指摘は、全くその通りである。大学が、学部・学科を構成体とする組織であると、私たちは思いがちだが、そうした組織としての大学は、極めて新しいのだ。そして、そこに漸(ようや)く、現在では知識の王様のように振る舞う「科学」(あるいは「科学者」)も登場する。

 第三部では、知識を地勢的な見地から理解しようとする章、政治、経済、産業などの社会機構と学問の関わりを考える章、そして近現代の知識・学問の様態の変化(なかでも、知識の技術への接近)を扱う章によって構成されている。

 著者は一九三七年生まれ、オクスフォードで、歴史学の領域で、学位を得た経歴を持つが、非常に広い分野で大量の著作を著してきた。本書の前著以外にも数多くの翻訳が出版されている。二〇一二年には東洋大学で文化史についての講演も行っている。(井山弘幸訳)
    −−「今週の本棚:村上陽一郎・評 『知識の社会史2 百科全書からウィキペディアまで』=ピーター・バーク著」、『毎日新聞』2015年10月11日(日)付。

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