覚え書:「ストーリー:封印された神父殺害事件 終戦3日後の銃声」、『毎日新聞』2015年10月11日(日)付。

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ストーリー:封印された神父殺害事件(その1) 終戦3日後の銃声
毎日新聞 2015年10月11日 東京朝刊

(写真キャプション)戸田帯刀神父が事件に遭った保土ケ谷カトリック教会を訪れたカトリック吉祥寺教会の後藤文雄神父=横浜市保土ケ谷区で、小川昌宏撮影

 汗ばむ陽気となった先月末、カトリック吉祥寺教会の後藤文雄神父(86)は電車を乗り継ぎ、東京郊外から横浜の保土ケ谷カトリック教会を訪ねた。チェコ人設計の高い天井を持つ司祭館は1938年の建設当時の姿を保っていた。玄関を入ってすぐ、6畳に満たない部屋が正面にある。あめ色に染まった木の床が時の経過をうかがわせた。

 「ここが現場です」。地元信徒の案内に、普段は快活な老神父が黙った。横浜教区長の戸田帯刀(たてわき)神父(当時47歳)があおむけに倒れ、遺体で見つかったのは、終戦3日後の45年8月18日夕刻だった。軍用拳銃のものとみられる銃弾が頭部を貫通し、背後の窓ガラスを何枚も貫いて中庭に落ちていた。

 「私は自分の生命にかけて日本のため、また世界平和のために働きます」。戦時下の44年10月、教区長に就任した際、そうあいさつしたという。各地で開かれる教会のミサを、憲兵特高警察が監視していた中で、戸田神父の発言は極めて大胆だったに違いない。平和の世が始まろうとした矢先、命を奪われた。

 「無念だったろう。それしか言葉が浮かばない」。後藤神父は大きな体をかがめ、ハンカチを取り出して、そっと目にあてた。

 事件の約10年後、犯人を名乗る男がカトリック吉祥寺教会を訪れ、ドイツ人の神父に「悔いています」と言った。信徒らによる後の調査では、連絡を受けた東京大司教区は当時、元憲兵と思われるこの男から事情を聴くことも、警察に届けることもしなかったとされる。

 自分が在籍する教会に「犯人」が来ていたことを、後藤神父は最近まで知らなかったという。それは戦後70年の間、事件そのものが広く知らされてこなかったからでもある。事件はなぜ「封印」されたのか。証言を求めて関係者を訪ね歩くと、闇の中から一人の神父の命懸けのメッセージが響いてきた。<取材・文 青島顕>
    −−「ストーリー:封印された神父殺害事件 終戦3日後の銃声 その1」、『毎日新聞』2015年10月11日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20151011ddm001040194000c.html



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ストーリー:封印された神父殺害事件(その2止) 神父銃殺の闇
毎日新聞 2015年10月11日 東京朝刊

(写真キャプション)戸田帯刀神父は中央の床に倒れていた。銃弾は奥の窓を複数枚割り、外で見つかったという=横浜市保土ケ谷区で、小川昌宏撮影

<1面からつづく>

 ◆終戦直後、歴史に埋もれた謎

 ◇ちらつく官憲の影

 保土ケ谷カトリック教会は、横浜市のJR保土ケ谷駅西口から坂道を15分ほど上がった丘にある。周辺は住宅街になっているが、フランス人宣教師らが教会を建てた1930年代末、辺りにはブドウ畑が広がっていたという。

 45年8月18日、土曜の午後だった。教会近くに住んでいた山本陽一さん(83)はふらりと家を出た。3日前に勤労動員先の工場で玉音放送を聞き、ようやく訪れた静かな日々だった。「教会の前の道に通りかかった時、『バーン』という鈍い音が聞こえたんです」。70年前の記憶をたぐり寄せるように証言した。

 何の音だろうか。驚いて立ち止まると、カーキ色の軍服に戦闘帽姿の男が教会の門から出てきた。どんな顔だったかは思い出せない。男は慌てた様子もなく山本さんとすれ違うと、右に曲がり、歩いて姿を消した。教会で何が起きたのか。その日は分からなかった。

 当時の信徒からの聞き取りによると、戸田帯刀(たてわき)・横浜教区長(当時47歳)が倒れていたのは司祭館1階の応接室。近くの柱時計は「午後2時40分」または「午後2時45分」で止まっていたという。逃走時に犯人が壁にぶつかり、止まったという説があり、黒い司祭服を着た戸田神父はその2−3時間後に遺体で見つかった。夕食の準備に訪れた賄いの女性が発見し、慌てて近所の信徒に知らせ、警察官が来た。

(写真キャプション)札幌教区長時代の1944年ごろ、看護学校の卒業式に出席した戸田神父(前列中央)=札幌市で、蛯沢ヨシエさん提供

 戸田神父は2階の寝室で昼寝をしていた形跡があり、犯人は客を装って訪問し、至近距離から発砲したとみられる。1発で頭部を撃ち抜いた手口から銃の扱いに慣れていること、さらに神父が一人になる昼食後に訪問していることから、周到な計画性もうかがわせた。中庭に落ちていた銃弾は軍用だったと伝えられる。

 人の恨みを買うとは思えないカトリックの高位聖職者が教会内で射殺された異常な事件だった。だが、終戦間もない混乱の中、事件は報道されず、今となってはどのような捜査が行われたのかも不明だ。現場の応接室には長い間、厚いビロードのカーテンが引かれていたという。

 戸田神父は1898年、山梨県北部の山あいにある西保(にしほ)村(現山梨市牧丘町)の養蚕農家に生まれた。6人きょうだいの5番目。今はブドウの名産地として知られるが、当時の村は貧しく、2人の兄は移民として米国とカナダに渡った。帯刀少年は体が弱く農業に不向きだったという。ただ、成績は優等で、高等小学校や教員養成所を卒業後、いとこを頼って上京し、開成中学に進んだ。

 カトリックとの出合いは、いとこの家族と東京下町の本所教会を訪ねた3年の時。洗礼を受け、神学校を経て、関東大震災があった1923年にローマ・ウルバノ大学に留学した。5年後に帰国すると、大正デモクラシーは終わり、日本は激動の昭和に突入していた。

(写真キャプション)電動ベッドを起こして取材に応じる聖園イグナチアさん=新潟市中央区で、青島顕撮影

 当時の戸田神父を知る人が健在と聞き、新潟市内にある病院を訪ねた。3階の入院病棟でカトリックシスターの聖園(みその)イグナチア(旧名・大橋みち子)さんは電動ベッドを起こして迎えてくれた。103歳とは思えない、強い意思を秘めた目をしている。

 「昨日も今日も考えた。戸田教区長様を殺した犯人を誰も見つけてくれないのかということを。苦しいのです、今も。はっきりした殺人なのに」

 事件が起きた時、聖園さんは神奈川県藤沢市の女子修道院にいた。知らせを聞き、列車で30分ほどの保土ケ谷に急いだ。葬儀で、神父の顔に白い包帯が巻かれていたことを覚えている。後になって、日本のカトリックの最高幹部が「戸田は犬死にだった」と発言したと人づてに聞いた。真意は分からなかったが、神父を侮辱するような言い方に、今も憤りを覚えるという。

 18歳の聖園さんをカトリックに引き入れたのが戸田神父だ。「人生の意味」について悩み、東京・麻布の教会を訪ねると、老フランス人神父の傍らに若い助任司祭がいた。戸田神父だった。「西洋帰りの青二才の先生」は怒った顔を見せたことのない明るい人だったという。そんな神父がなぜ殺害されたのか。私の疑問に聖園さんは答えた。「率直で正しい方でした。思った通りをおっしゃるからですよ」。戦争中、連合国出身の神父がスパイ容疑などで憲兵に迫害されたケースはあったが、日本人神父の摘発は多くない。数少ない一人が戸田神父だった。

 開戦4カ月後の42年3月、札幌教区長を務めていた戸田神父は北海道の特高警察に連行された。その直前には、理事長を務めていたカトリック系の商業学校での軍事教練に消極的だとして、軍部から批判されてもいた。

 戸田神父の起訴状の内容が残っている。同年2月27日、札幌市の教区長館に4人の神父を集め、こう言ったとされる。「今こそ日本が勝っているが、アメリカやイギリスは強国だからこれを向こうに回して戦えば将来どうなるか分からぬ。もし負けたら日本の国体(体制)もどうなるか分からぬ。最近南方に占領地を広めているが、あまり規則ずくめでやると南方の者も嫌気が差してくるだろう。そして占領地が広まれば広まるほど日本の国も困ってくる。これ以上生活が不安になると国が乱れてくる」

 日本軍がマニラを占領し、ラバウルに上陸。シンガポールの英軍が降伏し、「戦捷(せんしょう)第一次祝賀国民大会」が開催された頃だ。戸田神父の発言は密告され、陸軍刑法の「軍事に関する造言飛語」に問われた。

 「三畳の独房、灰色の壁に終日祈りに向って静かに判決言渡しを待って居ます。(中略)前途多難の道を予想しますが私の信念には何等動揺を来しません」。獄中にある戸田神父が知人に送った手紙を、麻布教会の信徒だった陰山〓(さだか)さん(故人)が信徒向けの広報紙で紹介している。4回の公判を経て無罪となったが、戸田神父がその後も官憲からマークされたであろうことは想像に難くない。

 2年後の44年10月、横浜教区長に転任。就任の式に現れた戸田神父は丸刈り頭で、出席者はその姿に目を見張り、覚悟を感じ取ったという。戸田神父は述べた。「私は自分の生命にかけて日本のため、また世界平和のために働きます」

 ◇真実の言葉、重み増す

(写真キャプション)保土ケ谷カトリック教会に建てられた戸田帯刀神父の言葉が掘られた石碑=横浜市保土ケ谷区で、小川昌宏撮影

 「戸田教区長射殺さる」。事件が日本のカトリック界で公式に取り上げられたのは、半年後の46年2月10日。戦後初めて発行された「カトリック新聞」の紙面でのことだ。その後、多くの人が目にする出版物で事件について書かれたものは少ない。70年代に、同郷の教会幹部、志村辰弥神父(故人)が「教会秘話 太平洋戦争をめぐって」の中で言及している他は、信徒向け写真月刊誌が2回、連載記事を載せた程度だ。

 憲兵の犯行を臆測した記事はあった。しかし、戸田神父が平和への志向を隠さなかったとはいえ、戦争が終わってからも殺害される理由が分からない。真相に迫る手がかりはないか。取材が行き詰まっていた時、意外な情報を得た。

 ある学者が、米国立公文書館で日本のカトリックに関する資料を探した際、戸田神父の名がある報告書を見たというのだ。試みにインターネットで氏名を入力し検索すると、容易に見つかった。米中央情報局(CIA)のホームページだ。「機密 大統領宛て文書 日本人交渉者」のカテゴリーに報告書はあった。

 「タテワキ・トダは」で始まる報告書は45年4月11日、CIAの前身、米戦略事務局(OSS)の情報源が発信したものとしている。死の直前のルーズベルト大統領に届けられた。戸田神父が当時のローマ法王ピオ12世に宛て、終戦工作のための提言を送ったとする内容だ。戸田神父は法王に「太平洋戦争についての調停の試みを放棄していない」ことを昭和天皇へ伝えるよう求めたとされている。

 ローマ法王を仲介した日米の終戦工作は、同年6月に米側から提案したことが明らかになっている。OSS文書が事実なら、工作はより早く、沖縄戦のさなかに始まっていたことになる。しかし、報告書は、戸田神父を「皇族の一員」と記載するなど、明らかに事実と異なる内容が盛り込まれていた。

 情報源を示すコードネームは「ベッセル(船)」とある。ベッセルは、バチカンで活動していた米国のスパイのコードネームで、イタリア人記者ら複数の人物が関わったとされる。ベッセルの報告書には偽情報が多い時期があり、内容の信用度をめぐって論議を呼んできた。「戸田神父に宮中との関係がないなら(報告書は)虚偽だろう」。日本近現代史の第一人者、保阪正康さんは言った。

 ただ、戸田神父は、皇室の侍従らと交流のあったドイツ出身のシスターと親しく、この人に遺書を託していたと伝えられる。また、ローマに留学経験があるとはいえ、バチカンでは無名の存在といえる戸田神父が、なぜOSSの諜報(ちょうほう)網にキャッチされたのかという疑問も残る。報告書は虚偽を含むが、実際に戸田神父がバチカンに働きかけていた可能性はないのか。あるいは、工作活動は事実無根であったとしても、報告書の内容が日本の官憲に伝わり、何らかの意図によって事件につながった可能性はないのだろうか。

 不可解な点はまだあった。

 カトリック吉祥寺教会は戦後間もなく、東京都武蔵野市の緑豊かな街並みに建てられた。戸田神父の事件を調べている元毎日新聞記者で、カトリック信者の佐々木宏人さん(74)によると、射殺事件の約10年後、この教会を中年の日本人の男が訪れた。応対したドイツ人の神父に自分の名を告げ、「私が射殺した」と話したという。しかし、男は警察に通報されることもなく、姿を消した。

 佐々木さんは6年前、カトリック吉祥寺教会に在籍していた神父に取材を試みた。ドイツ人神父の後任にあたる人物で、取材依頼の返信はがきにこう書かれていた。名乗り出た男について「元憲兵隊の横浜地区の人だと聞いております。私はその事実を確かめることなく過ごしております。何らの手がかりもありません」。便りの数年後、神父は亡くなった。

 やはり憲兵の犯行なのか。保阪さんは「終戦直後の憲兵は戦争責任を恐れて混乱していた。3日後ならなおさらだ。しかし、憲兵が戦後に民間人を射殺したケースは聞いたことがない。推測だが、神父を生かしておくと都合の悪い、よほどの事情があったのだろうか」と話した。

 現在、カトリック吉祥寺教会に在籍する後藤文雄神父(86)は事件をほとんど知らなかったという。佐々木さんが書いた記事を読み、「封印」されてきた理由を考え始めた。戦後70年の夏、佐々木さんを招いて講演会も開いている。カトリック教会はかつて日本天主公教会と名乗り、軍部に協力した一面を持つ。フィリピンなど占領したカトリック国を統治するため、日本人神父が送り込まれた。佐々木さんは後藤神父の疑問に答えるように「そうした歴史から、幹部の中に事件を表立って語るのを避けようという空気が生まれたのではないか」と話した。

 先月末、後藤神父は保土ケ谷教会を初めて訪ねた。5キロ以上離れた戸田神父の墓所にも足を運び、静かに語った。「事件の重大性に見合った扱いがされてきたとは到底思えないのです。たとえ教会に都合の悪いことがあったとしても、真実を明らかにすべきです」

 戸田神父や事件を直接知る人はわずかしかいなくなり、真相は闇の中だ。しかし、戦争の記憶が薄れていく今こそ、戸田神父の言動を伝える意味があるのではないか。異論を認め合う寛容さが失われ、意思や考えを率直に表明することに勇気が求められる時代。信念を貫き、国の行く末を見つめていた戸田神父の存在は重みを増していると思う。

 保土ケ谷教会の聖堂わきに「世界平和のために働きます」と刻まれた石碑がある。戦時下の44年10月、教区長の就任の式で戸田神父が述べた言葉だ。石碑は主任司祭だったニュージーランド出身のバリー・ケンズ神父(83)が10年前に建てた。穏やかな笑みをたたえ、ケンズ神父は言った。

 「戸田教区長の勇気ある言葉を知って、私もそのように働きたいと思いました。将来は歴史の上にあるものだと固く信じます。歴史から逃れることは危ないことなのです」
    −−「ストーリー:封印された神父殺害事件 終戦3日後の銃声 その2」、『毎日新聞』2015年10月11日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20151011ddm010040066000c.html

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