覚え書:「今週の本棚:磯田道史・評 『「昭和天皇実録」を読む』=原武史・著」、『毎日新聞』2015年10月11日(日)付。

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今週の本棚:磯田道史・評 『「昭和天皇実録」を読む』=原武史・著
毎日新聞 2015年10月11日 東京朝刊


 (岩波新書・864円)

 ◇官におもねらぬ良識の一書

 『昭和天皇実録』が公開されたのは、去年9月9日であったが、実は、私は、はからずもその実録を一般公開前にみた。その電話は、突然、文藝春秋からかかってきた。「磯田先生。『昭和天皇実録』が公開されます。事前に読まれませんか?」。これは直行せねばならぬ、と直感した。実録見たさにタクシーで駆けつけると、厳重に施錠された密室があって、全60巻の実録の写しがあった。文藝春秋の社員は「いくらでも読んでいい。しかし、ここで見たことは、いいというまで極秘にしてくれ。あとで実録についての座談会をやる」という。なんで実録が、ここにあるのか、あってよいのか悪いのか、そんなことはよくわからない。しかし、とにかく、その密室にいけば、思う存分に、実録が読める。私は、その密室に通い詰めて、実録をむさぼり読んだ。昭和天皇の宝算(ほうさん)88年の全生涯の記録を編んだ記録。歴史家にとってこれほど興味深い史料はない。没入しすぎて、気が付いたら、午前1時ということもあった。ほぼ読み終わると、別な思いが浮かんできた。これは大変な記録だ。税金で編んだのだから国民に分かりやすく内容を伝えねば。宮内庁は実録編纂(へんさん)に約2億円を投じたとしたが、人件費は別。実録編纂掛の専従職員数からすれば編纂期間24年5カ月で20億円を超える国費を投じたとみられる。

 文藝春秋半藤一利保阪正康御厨貴の三氏に私を加え、実録の内容についての座談会を急きょ開き、月刊誌にその様子を掲載。『昭和天皇実録の謎を解く』(文春新書)として公刊した。しかし、この本は緊急出版に近い。じっくりと実録を論じた著作が出ればよいと思っていた。そうしたら、本書がでた。著者は原武史氏。近代の皇室関係の著書が多く宮内庁担当の記者経験もある。この書の価値は実録を丹念に読み込み、実録編纂が触れたがらなかった事実に迫っている点にある。実録は「官製史」である。官製史は官にとって不都合なことは割愛するか小さく触れるか曲げて書くきらいがある。著者はそれを見逃さない。実録が触れたがらなかった「史実」を浮き彫りにする。

 本書の要点は次の四つだ。第一は、昭和天皇は敗戦後本気で退位を考えていたがその扱いが実録では正確でないとする。第二は、実録にはない昭和天皇とその母皇太后の葛藤を指摘した点である。皇太后昭和天皇にとり政治的にも抵抗勢力となっていて家庭内終戦工作が必要なほどであった。第三は、昭和天皇キリスト教ローマ法王の関係を追究した点である。昭和天皇ローマ法王の外交工作上の価値を高くみており、米英と開戦後、勝ちに乗じているときにローマ法王を仲介とした終戦工作をすすめた形跡があることなどを指摘している。第四は、実録が戦前戦中の昭和天皇神道思想をリアルに描き切っていないと鋭くついた点だ。昭和天皇は、幼少期から天照大神を拝まされていた。本書では「アマテラスの絵」とあるが、有栖川宮威仁(たけひと親王の「染筆」だからおそらく神号を書いた掛け軸を拝まされていた。国体そのものである三種の神器をお守りすることが天皇にとっての最上のつとめであり、国民を守ることはその次であった。昭和天皇伊勢神宮のみならず、戦争中「三韓征伐」を行った神功皇后応神天皇をまつった香椎宮宇佐神宮に敵国をはらう祭文を奉った。官製史は、一部では史実を曲げて戦後民主主義の枠内で理解されやすい天皇像を提供しがちだ。その点を逃さず、言い難きをきちんと言った本書は、官におもねらぬ良識の一書といえよう。
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