覚え書:「ストーリー:故郷追われた罪なき少女 無人機が奪った未来」、『毎日新聞』2015年11月08日(日)付。

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ストーリー:故郷追われた罪なき少女(その1) 無人機が奪った未来
毎日新聞 2015年11月08日 東京朝刊

 ヘーゼル色(薄褐色)の澄んだ瞳が印象的だった。パキスタンの首都イスラマバード。住宅街の一角にある弁護士事務所に現れた少女は、ソファに浅く腰掛けると、日本人の私の顔を興味深そうに見て、かすかにほほ笑んだ。無邪気な表情をどう見れば「テロリスト」と誤認できるのか。少女は3年前、米国が本土から遠隔操作する無人偵察機にミサイルで攻撃された。

<ストーリー>故郷追われた罪なき少女(その2止) 消えぬ誤爆の恐怖
 2012年10月24日、晴れた日の午後だった。パキスタン北西部・北ワジリスタン管区のグンディ・カラ村で、上空を飛んでいた無人機が突然、ミサイルを撃った。当時9歳だったナビラ・レフマンさん(13)=写真・佐藤賢二郎撮影=の目の前で爆発音と土煙が上がった。衝撃で倒れ込み、顔を上げると、30メートルほど離れた菜園でオクラを取っていた祖母、モミナ・ビビさん(当時67歳)の体が消えていた。恐怖が込み上げ、村の中心部に向かって走った。右手から血が流れ出す。夢中で走っていると、背後で再び爆発音が響いた。

 この爆撃で、モミナさんは死亡、ナビラさんら9人の子供がけがをした。「攻撃されるなんて思わなかった。私たちは悪いことをしていたわけではないから」。ナビラさんは不思議そうに言った。

 パキスタンでは、女子教育の必要性を訴えてイスラム過激派に銃撃されたマララ・ユスフザイさん(18)が注目を集め、昨年は史上最年少でノーベル平和賞を受賞した。一方、ナビラさんは何の補償も受けられないまま昨年6月、軍事作戦で故郷を追われた。学校にも通えていない。ナビラさんの父ラフィーク・ウル・レフマンさん(41)は言う。「マララもナビラも同じテロの犠牲者。違うのは、誰が攻撃したかだけだ」

 現代イスラム研究センター(東京)の招待で、ナビラさんは今月15−19日、父や支援者とともに初めて日本を訪れる。「テロとの戦い」最前線のパキスタンで、無人機の攻撃がいかに子供たちの将来を奪っているかを伝えるためだ。ナビラさんと家族の姿を追った。<取材・文 金子淳>
    −−「ストーリー:故郷追われた罪なき少女(その1) 無人機が奪った未来」、『毎日新聞』2015年11月08日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20151108ddm001030167000c.html


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ストーリー:故郷追われた罪なき少女(その2止) 消えぬ誤爆の恐怖
毎日新聞 2015年11月08日 東京朝刊

(写真キャプション)爆撃で死亡したモミナ・ビビさん=支援団体「基本的権利基金」提供
 <1面からつづく>

 ◆パキスタン 頭上の米国無人

 ◇突然爆音、血と悲鳴

 パキスタン北西部・北ワジリスタン管区で生まれ育ったナビラ・レフマンさん(13)にとって、上空を飛ぶ米国の無人偵察機は、物心ついたときから見慣れたものだった。ブーンという低い飛行音とともに昼夜を問わずやってくる。ジェット機やヘリコプターとは違う独特の音。機体が見える時もあれば、音だけのこともあった。米国が2001年に「テロとの戦い」でアフガニスタンを攻撃したのをきっかけに、国際テロ組織アルカイダパキスタン北西部に流入。ナビラさんの故郷は「テロリストの聖域」と呼ばれるようになっていた。

 米国がパキスタンで初めて無人機攻撃を実施したのは04年6月とされる。ナビラさんが1歳半の頃だ。ただ、常に攻撃してくるわけではない。普段は搭載されたカメラやレーダーを使い、旋回しながら偵察を続ける。「怖いと思ったことはなかった。攻撃されるなんて考えたこともなかった」。子供たちは外で遊び、誰も頭上の無人機を気にしなかった。

 だが、あの日は違った。「さあ、みんなも手伝って」。12年10月24日午後2時半ごろ、足の悪い祖母モミナ・ビビさん(当時67歳)が自宅前の菜園へ出て、オクラを摘み始めた。ナビラさんは兄ズベイルさん(19)らと家畜の牛に水をやり、牧草の刈り入れに取りかかった。2日後にイスラム教の犠牲祭を控え、心は弾んでいた。澄んだ青空にはいつものように無人機が旋回していた。

 ダムダム−−。約15分後だったと記憶している。農村の静けさは聞いたこともない音で破られた。無人機が放ったミサイルはモミナさんがかがんでいた辺りで爆発し、周囲は火薬のにおいと土煙に包まれた。「何があったんだ!」。ズベイルさんの叫び声が聞こえ、ナビラさんは怖くて走り出した。自宅に逃げ込もうとしたが「また撃たれるかもしれない」。村の中心に向かって逃げた。右手から流れ出す血を止めようと押さえたが、止まらなかった。数分後、背後で再び「ダムダム」とミサイルを発射する音が聞こえ、同じ場所で爆発した。異変に気づいた村人がナビラさんを家の中に避難させ、傷口を洗ってくれた。

(写真キャプション)モミナさんが死亡した爆撃で無人機から放たれたミサイルの破片=アムネスティ・インターナショナルの報告書より
 「武装勢力とみられる3人を殺害」(地元紙ネーション)、「『標的は武装組織の拠点』と治安関係者」(AFP通信)−−。攻撃は当初、このように報道された。だが、実際に死亡したのは、モミナさんと4頭の牛だ。

(写真キャプション)2発目のミサイルが直撃した現場。地面に大きな穴があいた=アムネスティ・インターナショナルの報告書より

 モミナさんの楽しみは、部屋に子供たちを集めて話をすることだった。「たくさん勉強しなさい」。ナビラさんはたびたび、諭されたという。モミナさん自身は教育を受けていないが、夫は小学校の元校長で、ナビラさんの父ラフィーク・ウル・レフマンさん(41)ら3人の息子も教師になった。無人機の攻撃を受けた日は、家の中で孫たちと親戚の結婚式や犠牲祭の計画を話していた。

 「直前までおばあちゃんの足をもんでいた。だから、今も時々、おばあちゃんの足をもまなきゃと思うことがある。でも、おばあちゃんはもういない」。ナビラさんは淡々と話し、目を伏せた。

 同じ頃、世界の注目を集めたパキスタンの少女がいた。教育の大切さを訴え、国内最大の武装勢力パキスタンタリバン運動(TTP)」に銃撃されたマララ・ユスフザイさん(18)だ。

 ナビラさんとマララさんの人生はある時点まで奇妙なほど似ている。2人とも同じパシュトゥン人で、北西部の保守的な地域で育った。父はいずれも学校の教師。そして12年10月、ナビラさんは米国の無人機に、マララさんはその米国を敵視するTTPに攻撃された。2人の境遇はかけ離れていく。

 マララさんは事件発生直後から世界の注目を浴びた。英国に緊急搬送されて一命を取り留めると、そのまま英国で学校に通いながら教育の普及に力を注いだ。発言は欧米メディアなどで繰り返し伝えられた。米ホワイトハウスオバマ大統領と面会したのは13年10月。ニューヨークの国連本部で「一人の子供、一人の教師。一本のペン、一冊の本。それが世界を変えるのです」と演説し、拍手喝采された3カ月後のことだ。

 「無人機攻撃はテロリズムを増幅させる。罪のない人が殺害され、憎悪をもたらすことになる」。マララさんはオバマ大統領に訴え、後に米メディアのインタビューにこう語った。「無人機はテロリストを殺害するが、民間人も標的になっている。もし父が殺されたら、子供はテロリストになってしまう」。当時16歳のマララさんが、米軍の最高司令官に無人機攻撃をいさめたことは、メディアで大きく取り上げられた。

 ナビラさん一家は爆撃後、3カ月ほど親戚の家に身を寄せた。「大好きだった家が怖くなった」からだ。ナビラさんの右手の傷は間もなく癒えたが、左足に破片を受けた兄ズベイルさんは2回、摘出手術を受けた。子供の治療費計約150万ルピー(約170万円)を工面するため、父レフマンさんは親戚から借金を重ね、土地の一部も手放した。

 マララさんがオバマ大統領に面会した約2週間後、ナビラさん一家も米国を訪れている。支援団体が働きかけ、米議会の公聴会無人機の被害を証言することになったのだ。訪問の直前、国際人権団体アムネスティ・インターナショナルはナビラさんのケースを詳細に取り上げた。報告書を書いたムスタファ・カドリさんは「独立した調査により、明らかな人権侵害と判明したため」という。

 ナビラさんとレフマンさん、ズベイルさんには初めての外国旅行。飛行機に十数時間も座りっぱなしで、米ワシントンの空港に降り立った時、ナビラさんは疲れ切っていた。それでも、見るもの全てに心を奪われた。高層ビルやきれいな川。スーパーで買ったブドウは故郷のものより小さかったが、種がないことに驚いた。行き交う女性はみんな教育を受けているように感じた。「何て平和で発展しているんだろう。故郷と全然違う」。何よりも、ここには戦争がなかった。

(写真キャプション)米南部テキサス州の海軍機地で待機中の無人プレデター=AP

 ◇「平和な故郷で学校に」

 無人機の被害者が米議会で話すのは、ナビラさんの家族が初めてだった。「私たちの話を聞いたら、無人機の攻撃をやめてくれるのではないか」

 しかし、期待は裏切られた。公聴会に出席した議員はわずか5人。それでも、レフマンさんはとつとつと訴えた。「なぜ畑で作業をしていた母が殺されなければならなかったのか、誰も教えてくれない。私は教師だ。事件について子供にどう教えればいいのか、分からない」。ズベイルさんも絞り出すように言った。「僕は今は曇り空が好きだ。もし晴れていたら、また無人機が来るかもしれないから。僕たちが無人機をどう見ているのか、米国の人は知ってほしい」

 ナビラさんの心にはオクラを摘む祖母の姿があった。「空に無人機が飛んでいた。ダムダム、という音がして、真っ暗になった。私にはただ走って逃げることしかできなかった」。同時通訳をする女性の目に涙が浮かんでいることに気づいた。「悲しかった。私も心の中で泣いていた」とナビラさんは言う。

 一家の訪問は欧米メディアで報道された。しかし、米当局からは被害の補償や攻撃に関する説明は一切なかった。レフマンさんは「もっと多くの人が我々の話を聞くべきだった」と憤るが、ナビラさんは違う。「どんな国でもいい人も悪い人もいる。私が会ったのはいい人ばかりで、みんな敬意を持って私たちの話を聞いてくれた」。心に残ったのは感謝の気持ちだった。

 パキスタン軍は今年9月、国産無人機による攻撃を初めて実施したと発表したが、それまで同国で無人機による攻撃を行っていたのは米国だけだ。ロンドンの非営利団体「調査報道局(BIJ)」のまとめによると、パキスタンでは04年以降、421回の無人機攻撃があり、最大3989人が殺害された。965人は民間人で、うち207人が子供だったという。4人に1人は「テロリスト」と無関係の市民ということになる。米インターネットメディア「インターセプト」は10月、米軍の機密文書とされる資料を基に、アフガンでは一時期、無人機で殺害した9割が標的と異なっていたと報じた。

 片目の視力を失い、記憶障害になった14歳の少年、マドラサイスラム教神学校)の爆撃に巻き込まれて死んだ子供−−。支援団体「基本的権利基金」(イスラマバード)を設立したシャーザード・アクバル弁護士によると、誤爆の被害者は枚挙にいとまがない。オバマ大統領は13年5月、民間人の死傷者が出ないことがほぼ確実でなければ攻撃しないとするなど、無人機の運用規定を厳格化する方針を示したが、懸念は消えない。「無人機は住宅や車など何でも標的にする。『自分は標的にされていない』とは誰も確信を持てない」。アクバル弁護士が相談を受けた被害者は150家族に及ぶ。

 米国から帰国したナビラさん一家に、つらい現実が待っていた。14年6月、北ワジリスタン管区でパキスタン軍によるTTPの掃討作戦が始まった。「3日以内に村を出て行くように」。突然、長老に告げられた。地上戦が始まる−−。ナビラさんら村民は衣類や現金などわずかな財産を抱え、約50キロ離れた隣接州の町を目指した。ひどい一日だった。ナビラさんは祖父と並んで山道をひたすら歩いた。「家も畑も捨ててきた。どこに行くかも分からなかった」。友人とはすぐに離ればなれになった。

 避難所があるバンヌーの町に着いたのは午後9時ごろ。難民キャンプはいっぱいで、行く当てもなく、路上で一夜を明かすしかなかった。郊外にある政府庁舎の敷地に空き地を見つけたのは、数日後のことだ。それから1年半がたった現在も、一家は空き地に建てた粗末な小屋で暮らしている。地元の学校教師だったレフマンさんは失業し、生活は政府や支援団体の配給が頼み。息子たちは2キロ離れた学校に通うが、付近に女子校はなく、ナビラさんら娘はずっと家にいる。

 学校に2年間しか通えなかったナビラさんの楽しみは、家で教科書を読むことだ。今は親戚の子供たちと一緒にレフマンさんに教わりながら、3年生の教科書を読んでいる。マララさんが教育の普及のために活動し、ノーベル平和賞を受賞したとニュースで知った。「私たちを支援してくれるなら、マララと友達になりたい。でも、助けてくれないのなら嫌」。率直な思いを口にして照れたのか、恥ずかしそうにナビラさんは笑った。

 「マララさんとの差はどこから来るのだろう。無人機の被害を調べているうちに、そんな思いが強まりました」。ナビラさんを日本に招待する現代イスラム研究センターの宮田律理事長は語った。マララさんに比べ、ナビラさんの声は世界に十分届いていない。確かにナビラさんは素朴でシャイな普通の女の子だ。それでも、淡々と語る体験談は胸を打つ。ナビラさんを招いて東京で講演したり、広島の被爆者と交流したりするため計画を立てた。

 ところが、取材後の10月中旬に来日が頓挫しかけた。女性を屋内に隔離する慣習「パルダー」(ペルシャ語で幕の意味)に反するとして、ナビラさんが外国で人前に立つことに、一部の親族や部族の長老が難色を示したのだ。アクバル弁護士らの説得で許可は下りたが、写真撮影に条件がついた。撮影済みの写真使用は認められたものの、新たな撮影は「原則禁止」とされた。

 宮田理事長に宛てたアクバル弁護士のメールにこう書かれている。「マララは信念のために立ち上がり、支援してくれる家族にも恵まれた。不運なことに、哀れなナビラにはこうした環境がない」

 ナビラさんには三つの夢がある。学校に行って勉強すること。いつか弁護士になること。そして、教育を受けられない故郷の子供たちのために、何かをすること−−。だが、避難生活の終わりは見えない。いつ学校に通えるのかも分からない。そして、残りの人生を「幕」の向こうで過ごすことになるかもしれない。

 「平和な故郷で学校に行きたい」。外の世界に声を届ける最後の機会になるかもしれない日本訪問。ナビラさんが訴えるのは、ささやかで切実な願いだ。

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 ◆今回のストーリーの取材は

 ◇金子淳(かねこ・じゅん)(ニューデリー支局)

 2006年入社。北海道報道部、外信部を経て昨年4月から現職。南アジア全域を担当し、昨年のノーベル平和賞授賞式やネパール大地震パキスタンの教育問題なども取材した。
    −−「ストーリー:故郷追われた罪なき少女(その2止) 消えぬ誤爆の恐怖」、『毎日新聞』2015年11月08日(日)付。

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