覚え書:「今週の本棚:堀江敏幸・評 『写真幻想』=ピエール・マッコルラン著」、『毎日新聞』2015年11月01日(日)付。

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今週の本棚:堀江敏幸・評 『写真幻想』=ピエール・マッコルラン
毎日新聞 2015年11月01日 東京朝刊
 
 (平凡社・3456円)

 ◇時代の不安を払うあたたかな言葉

 すでに何冊かの邦訳はあるものの、ピエール・マッコルランの名が日本の読者に浸透しているかと言えば、残念ながら否と言わざるをえないだろう。一八八二年に生まれ、一九七〇年まで生きたこのフランス人作家は、物語や詩の創作にとどまらず、二〇世紀初頭にはまだ新規なものだった写真、映画、蓄音機という、いずれも「グラフ」という語尾で終わる技術領域の可能性に鋭敏な反応を示し、それを一九三〇年代に隆盛を迎えるルポルタージュ文学に活(い)かしてみせた。

 本書はそのうち、写真関係の仕事をまとめた初の試みである。中心をなすのは一九二〇年代に書かれた一連の文章だが、マッコルランにとって写真とは、第一次世界大戦が終わり、来たるべき愚行の匂いが早くもただよい始めていたこの時代における日常の「感情的な記述」を担いうる、最もすぐれた表現方法だった。そこには機械による偶然の力が、撮影者にも意識されていなかった力が作用する。思いもよらぬ細部が、世界の証言になる。「感情的な記述」とは、写真を前にした文学的な想像力に荷担することで生じるものなのだ。

 マッコルランの言葉は、ときに箴言(しんげん)の輝きを放つ。「写真の力強さとは、瞬時の死を創造し、事物や存在にあの通俗的な神秘を−−それは死に空想の能力を与える−−差し出すことだからだ」という一文などは、その最も印象的な事例だろう。写真がもたらす不動と休止は、速度が支配しつつあった両大戦間にも恐怖と不安を無言のまま暴きたてる。マルセル・カルネ監督『霧の波止場』の原作者でもあるマッコルランにとって、夜霧は「社会的幻想」を照射する不可欠な小道具だった。

 箴言は、しばしば曖昧な霧に包まれる。「知識にかんするもっとも風変わりな形態の一つは、それが不安にまつわるすべての装いを含みこもうとするとき、冒険と呼ばれる」。この微妙によじれた言いまわしに、マッコルランの魅力がある。機械を語りながら、彼の文章は歯車のあそびを活かして、ついに即物的にならない。

 先に引いた写真における死の創造という一節は、一九三〇年に刊行されたウジェーヌ・アジェの写真集の序文に記されたものである。人の姿がどこにもない、完全な静寂のなかで捉えられたアジェのパリに、作家は不用意に入り込む。「冒険は、白と黒とに書きこまれる。白も黒も、まったく頭脳的な色である」としながら、脳内の化学反応に情を染み込ませるような隙(すき)を見せる。そこに彼の新しさがあり、限界があった。

 しかしこうした弱さがあるからこそ、マッコルランの言葉には滋味深い靄(もや)がかかるのではないか。クロード・カーアン、ジェルメーヌ・クリュル、アンドレ・ケルテス、ウィリー・ロニス、ミシェル・コットらの仕事に触れるときの筆に、解説や分析の重さはない。写真が「道具による文学」だと言いながら、道具を超えたなにかを彼は見ている。無名の写真家ヴァルタの仕事に寄せて、彼はこう書く。

 「彼が撮る肖像写真の多くに差しこんでいる光は、心に発しているのだ。それは、熱さの源のような、文学と撮影される人の知性のあいだにある源のような、写真という芸術にあの説明不可能な力強さを与える源のような心だ」

 かつての時代の不安を払わずして払い、死の匂いをも豊かにする、あたたかさに満ちた言葉だ。光やレンズの気まぐれに任せておけばよい場所に、八十三歳の作家は心を置いた。それを忘れてはならないだろう。(昼間賢訳)
    −−「今週の本棚:堀江敏幸・評 『写真幻想』=ピエール・マッコルラン著」、『毎日新聞』2015年11月01日(日)付。

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