覚え書:「今週の本棚:三浦雅士・評 『日本人にとって美しさとは何か』=高階秀爾・著」、『毎日新聞』2015年11月01日(日)付。

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今週の本棚:三浦雅士・評 『日本人にとって美しさとは何か』=高階秀爾・著
毎日新聞 2015年11月01日 東京朝刊
 
 (筑摩書房・2052円)

 ◇考えるヒントに満ちたエッセイ集

 冒頭の一篇、「日本人の美意識」と副題された「言葉とイメージ」は、「うちの孫なんかがメールでいろいろ友達と話しているとき、最後に笑い顔か何かのいろんな絵文字をつけます」という話から始められている。怒りにしてもいろいろな怒りがあって、「うんと怒っているよ」とか「ちょっと怒っている」とか、何種類もあるというのだ。じつはこの絵文字のなかに日本人の美意識の秘密が隠されていると著者はいう。

 意表を衝(つ)かれる。

 文字で絵を描く伝統は古い。鎌倉時代の《金字宝塔曼荼羅(こんじほうとうまんだら)》は建物を文字で描いた文字絵である。近くは、判じ絵になっている蕪村の手紙、あるいは平仮名で喜撰(きせん)法師の衣を描いた北斎の《六歌仙図》、さらに擬態語を図案化して取り込んだ現代の漫画まで、文字絵、絵文字の例は、日本の美術史、文学史のいたるところに潜む。

 ミシェル・フーコーはその著『これはパイプではない』において、マグリット以前、絵と文字はまったく別の世界のものだったと書いているが、「それはあくまでも西欧語圏での話であって、東洋においては通用しない」と著者は断言する。実際、仮名文字を発明し、「漢字仮名まじり文」を使いこなすようになった日本人は、その美意識において活字を意図的に長く受け入れなかったのである。

 「日本でも、江戸時代初期、活版印刷が知られていなかったわけではない。家康が鋳造させた活字は、駿河版と呼ばれる版本とともに今でも残っている。だが日本人は、西欧渡来のこの新技術を結局は受け入れなかった。浮世絵にしても、黄表紙その他の挿絵本にしても、いずれも木版である。それは何よりも、絵と文字の分離を嫌ったからであろう。絵と文字を一体として見るこの日本人の感性が、現代に至るまでなお生き続けていることは、棟方志功の最高傑作と言っていい吉井勇の歌による《流離抄板画柵》や、同じく谷崎潤一郎の歌を絵画化した《歌々板画柵》の例を思い出してみれば明らかであろう」

 古くは中国、新しくは西洋からの文物をほとんど無限に受け入れたかのように見える日本が、そのじつ巧みな取捨選択を行っていたこと、また、受容するにあたっても本質的な改変を加えていたことを著者は力説する。たとえば《聖徳太子及び二王子像》に描かれた二様の剣に見てとれるように、中国の直刀に「反り」を加えることによって日本化した。その原理は日本建築の特徴といっていい屋根の「反り」にまで貫徹している。宮大工独特の「撓(たわ)み尺」は西洋のカーヴとは根本的に違っているというのである。

 余白の美学が日本独特のものであることは、「余白」という言葉が英語やフランス語に訳しにくいところからも明らかだが、特筆すべきは彼我の違いが、最終的に「実体の美と状況の美」の違いに帰結するのではないかとする著者の指摘だろう。「日本人は、遠い昔から、何が美であるかということよりも、むしろどのような場合に美が生まれるかということにその感性を働かせて来た」というのだ。たとえば清少納言の「春は曙(あけぼの)」「秋は夕暮」。あるいは、広重の《名所江戸百景》が結局は春夏秋冬の四部に分類されてかえってその特色が強まったことなどを見よというのである。

 価値の多元化を標榜(ひょうぼう)するポストモダンがほとんど常識化して半世紀、逆に芸術のあらゆる領域において閉塞(へいそく)感が著しい。人間にとって美しさとは何か、いまや芸術の座標そのものが根本的に問い直されるべきではないか。問題の所在を示唆する貴重な一冊である。
    −−「今週の本棚:三浦雅士・評 『日本人にとって美しさとは何か』=高階秀爾・著」、『毎日新聞』2015年11月01日(日)付。

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http://mainichi.jp/shimen/news/20151101ddm015070037000c.html



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