覚え書:「家族も僕もファンもみんな水木作品 京極夏彦さん追悼文」、『朝日新聞』2015年12月01日(火)付。

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家族も僕もファンもみんな水木作品 京極夏彦さん追悼文
2015年12月01日

大判の妖怪画集「妖鬼化(むじゃら)」に掲載された、岩手の妖怪スネカの絵と顔を並べる水木しげるさん=1999年1月、東京都調布市の水木プロ
水木しげるさんを悼む 小説家・京極夏彦

 いつも、必ずどこかにいる。いちいち確認しなくても、ずっといる。いることがわかっているから、安心できる。僕にとって水木しげるさんは、そういう人でした。僕が生(うま)れた時、もう水木漫画はありました。その後ずっとあって、今もある。物心つく前から水木作品にふれて、水木作品と共に育ち、水木作品と共に老いて、今の僕はあります。

 九十三歳、画業は六十年以上。その長きに亘(わた)り、常に第一線に立ってひたすら娯楽を生み出し続けてきた水木さんの功績は、いまさらくり返すまでもないでしょう。それは僕たちの血となり肉となり、そして日本文化の一側面を築き上げたといっても過言ではありません。日本文化の持つ創造性や特異性を「妖怪」という形で結実させ、再発見させてくれたのは、誰あらん水木さんその人でした。

 水木さんには左腕がありませんでした。戦争という抗(あらが)いがたい魔物が水木さんに消えない傷を刻みつけたのです。その残酷な目に見える現実世界と、妖怪という目に見えない精神世界との間を自在に往還し、水木さんは「生きることは愉(たの)しいし、生きているというだけで喜ばしいのだから、もっと喜べ」と、作品を通じ、また身をもって教えてくれました。

 一介の熱心なファンだった僕は、そのうちひょんなことから水木さんと知り合う機会に恵まれ、やがて一緒にお仕事をさせていただくことになりました。ご一緒する機会も多かったのですが、同じ場所にいるだけで「意味もなく幸せな気分になれる人」というのは、そういるものではありません。水木さんはそういう人でした。

 ログイン前の続きこの二十年、水木さんはずっと指標として僕の頭の上に浮かんでいてくれました。僕は小説家ですが、小説の書き方は水木漫画に学びました。仕事の仕方も、生き方も、みんな水木さんが教えてくれました。ですから、「水木しげる漫画大全集」の監修を拝命した時は身が引き締まる思いでした。険しい道ですが万難を排して取り組まなければと思ったものです。それもこれも、水木さんご本人がそこにいてくれたからです。

 その、いつも必ずどこかにいるはずのものが、突然いなくなってしまいました。

 魂を半分くらい持っていかれたような、そんなフガフガの気持ちになりました。

 でも。僕は思い直しました。全集の第一期刊行が終(おわ)った時、水木さんは「京極サンも、あれは水木サンの作品のひとつですヨ」とおっしゃったのだそうです。とても嬉(うれ)しく思いました。その言葉を思い出したからです。

 水木さんを知る人は、みな「水木しげるの最高傑作は水木しげる本人だ」というでしょう。その通りなのですが、それだけではないのです。水木さんはその人生をも作品にしてしまいました。大切にされていたご家族、愉快な仲間、ヘンテコな友人、みんな、水木さんの作品なのです。水木ファン全員が水木作品なのでしょう。それなら安心です。水木さんは作品の中からはいなくなってしまいましたが、「作者」としてずっと外側にいてくれるのです。ならば僕も、水木作品として「面白く」ならなければいけないのでしょう。

「あんた、作品は面白くなきゃイカンのですよ」

 水木さんはそうおっしゃるのでしょうから。

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 きょうごく・なつひこ 1963年生まれ。2004年「後巷説百物語」で直木賞水木しげるさんとの共著に「ゲゲゲの鬼太郎解体新書」。96年、水木さんと世界妖怪協会を設立。13年から108巻をめざして刊行中の「水木しげる漫画大全集」を監修している。
    −−「家族も僕もファンもみんな水木作品 京極夏彦さん追悼文」、『朝日新聞』2015年12月01日(火)付。

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http://www.asahi.com/articles/ASHD14FSXHD1UCVL007.html






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