覚え書:「書評:わたしの木下杢太郎 岩阪恵子 著」、『東京新聞』2015年11月15日(日)付。

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わたしの木下杢太郎 岩阪恵子 著

2015年11月15日

◆無を越えた命を見つめる
[評者]堀江敏幸=作家
 明治四十一年に結成された「パンの会」に属する耽美(たんび)派詩人として語られることの多い木下杢太郎(もくたろう)。本名は太田正雄、明治十八年、静岡県の呉服卸業の家に生まれ、旧制一高を経て東京帝国大学医学部に学んだ皮膚科の医師で、真菌とハンセン病を専門とする研究者でもあった。「EAU−DE−VIE DE DANTZICK(オオ ド ヰイド ダンチツク)/五月(ごぐわつ)だもの、五月だもの−」。そんな異国情緒あふれる詩や小説を発表していたのは、しかし二十一歳から三十一歳までの、わずか十年ほどのことにすぎない。
 著者はすでに、画家小出楢重、詩人木山捷平をめぐって、共感に基づく「人と作品」を描いてきた。ここにまた、「わたしの」という所有形容詞を付すべき対象に木下杢太郎が加えられたのは、中野重治の評がきっかけだった。控えめで、慎重で、臆病な杢太郎の資質は、むしろ中年期以後の随想に刻まれている。
 大正五年から九年まで、杢太郎は南満医学堂教授兼皮膚科部長として旧満州に暮らし、十年から十三年にかけては欧米を周り、フランスで研究を重ねた。帰国後は名古屋、仙台の帝大の教授を歴任し、最後は母校の東京帝国大学医学部に身を置いている。ただし、傍目(はため)には順調と見える昇進のなか、杢太郎の心は医者たる自分と芸術を愛する自分とのあいだで引き裂かれていた。
 しかし、それが最晩年にひとつの合一を見せる。昭和十八年三月から二十年七月にかけて、杢太郎は帝国の愚行と自身の健康状態を案じつつ、身近な植物をひたすら見つめて丁寧に写生し、日録風の文章を添えた。総計八百七十二枚。『百花譜』と題されたこの「作品」は、戦争や死からの逃避ではなかった。植物の生命と向き合うことは、「全霊を尽してする全く孤独な、それでいて至福の世界への没入であった」のだ。ただの受け身に終わらず、無の先に生え出るひこばえを見つめることのできた杢太郎の眼差(まなざ)しを、著者はまっすぐに受け止めている。
 (講談社・1944円)
<いわさか・けいこ> 1946年生まれ。作家。著書『淀川にちかい町から』など。
◆もう1冊 
 岡井隆著『木下杢太郎を読む日』(幻戯書房)。医師で歌人の著者が杢太郎の詩や散文を読み、憂愁の資質や自殺願望について語る。
    −−「書評:わたしの木下杢太郎 岩阪恵子 著」、『東京新聞』2015年11月15日(日)付。

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