覚え書:「今週の本棚・養老孟司・評 『道程−オリヴァー・サックス自伝』=オリヴァー・サックス著」、『毎日新聞』2016年01月17日(日)付。

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今週の本棚
養老孟司・評 『道程−オリヴァー・サックス自伝』=オリヴァー・サックス

毎日新聞2016年1月17日 東京朝刊


 (早川書房・2916円)

消えゆく昭和に共通な雰囲気

 サックスの本はいつも夢中で読んだ。いくつも翻訳されていて、代表作はほぼ日本語で読むことができる。第一作『サックス博士の片頭痛大全』からはじまり、『レナードの朝』『火星の人類学者』『妻を帽子とまちがえた男』『左足をとりもどすまで』などが代表作であろう。天性のストーリ・テラーで、母親譲りだと自分で書いている。この本はそのサックスの自伝である。サックスがどんな人か、関心がある人には見過ごせない。

 サックス一九三三年生まれ、評者より四歳年上である。昨年夏に亡くなった。アメリカで働いたが、ロンドン生まれ、両親も兄弟も医師というユダヤ系の家庭の出身である。若いころからなんでもやりすぎの傾向があったらしい。先生にそう注意されたという。身体的な面でも活動家だった。オートバイに凝り、何度か危険な目に遭っている。自分と一体になった感じがする点が好きだったという。オートバイ好きの作家を何人か、あげることができる。日本では胡桃(くるみ)沢耕史(さわこうし)、外国では『シャンタラム』のグレゴリー・デイヴィッド・ロバーツ。ちょっと毛色が変わった作家がオートバイを好むのか。

 さらにサックスは同性愛者であり、一時はアンフェタミン中毒だった。三十五歳を超えてまでは生きられないと思っていたと書く。しかし「精神分析と、いい友人たちと、臨床の仕事と書くことへの満足と、そしてなにより幸運のおかげで」八十過ぎまで生きた。

 どこの社会でもそうだと思うが、こうした人物が世間と上手に折り合っていくのは難しい。はじめは基礎的な研究を志すが、「研究室の災厄だ」とまで言われて、あきらめる。次はアメリカで定評のあった頭痛専門の診療所に勤務するが、ボスとぶつかって退職する。『レナードの朝』の舞台になった病院も、患者さんから離れたわけではないが、正式にはやめることになる。そうした社会的な折り合いだけから書いていけば、失敗だらけの人生ということになりそうである。

 それを救ったのは臨床医としての才能と書くことである。若いころからの日記は膨大な量になるという。家族には長文の手紙を頻繁に書いた。著作はしばしば脚注だらけになった。ここでもやりすぎの傾向が出ているわけである。いくら大量に書いたにしても、つまらないことでは話にならない。しかしサックスの手にかかると、現代医学ではただひたすら検査の数字と画像になってしまう患者さんが、まさに生きて動き出す。脳炎の後遺症を扱った『レナードの朝』では、一時的であるとはいえ患者さんが「生き生きと動き出す」ことが現実に起こってしまう。臨床医としてのサックスを象徴する出来事であろう。

 「政治にしろ、社会にしろ、性的なことにしろ、時事的なことがらをほとんど知らないし、ほとんど興味がない」「隅っこに引っ込んで目立たないようにして、見落とされることを願う傾向がある」。作品からはとてもそうは思えないかもしれないが、サックスの気持ちは私にもよくわかるように思う。その気持ちが著者を書くことに向かわせる。

 この本を読んでいると、いわゆる昭和として回顧される時代には、かならずしも日本に特有ではない雰囲気があったことに気づく。ネットやロボットの時代に、それがどこまで生き残るのだろうか。私にとっての同世代がしだいに消えていくが、それはそれで仕方がないのであろう。(大田直子訳)
    −−「今週の本棚・養老孟司・評 『道程−オリヴァー・サックス自伝』=オリヴァー・サックス著」、『毎日新聞』2016年01月17日(日)付。

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今週の本棚:養老孟司・評 『道程−オリヴァー・サックス自伝』=オリヴァー・サックス著 - 毎日新聞








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