覚え書:「今週の本棚・渡辺保・評 『世界演劇辞典』=石澤秀二・著」、『毎日新聞』2016年01月17日(日)付。

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今週の本棚
渡辺保・評 『世界演劇辞典』=石澤秀二・著

毎日新聞2016年1月17日 東京朝刊
 
 (東京堂出版・7344円)

見方を変え、新しい演劇の出発点に

 丸谷才一さんは、かつて辞書を「読む」楽しみを説いた。しかし辞書は「引く」ものであって「読む」ものではないと思っていた私はビックリした。むろん辞書は文章を書く人間には必須のものだが、それは言葉の正しい意味を知るための手段であって、読んで面白いと思ったことがなかったからである。

 ところがこの演劇についての辞書は違う。読んで面白い。その理由は二つある。

 第一に、普通の辞書は大抵何人かが分担執筆する。しかしこの辞典は、石澤秀二が1160余りの項目−−古今東西の作品、ジャンル、運動、劇作家、演出家、俳優、装置家らのスタッフ、劇評家らを長い歳月をかけてたった一人で書き上げた。そこに石澤秀二の人生が出ている。そこが面白い。

 第二に、その人生を通して、演劇の歴史が大きくうかんでいる。

 石澤秀二は、劇作家田中千禾夫(ちかお)の創刊した白水社の演劇雑誌『新劇』の編集長として辣腕(らつわん)を振るって「新劇」の黄金時代をつくった。それとともに桐朋学園の教壇に立ち、劇評家としても活躍。一方1960年代の鶴屋南北の「南北ブーム」の先駆けとなった、俳優座の小澤栄太郎演出の「四谷怪談」の上演台本をつくり、さらに演出家として南北の「盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)」や「桜姫東文章(さくらひめあずまぶんしょう)」、イヨネスコの前衛劇「禿(はげ)の女歌手」の日本初演青年座の宮本研の「からゆきさん」初演の演出家として活躍した。

 この履歴を見れば明らかなように石澤秀二は、戦後の混乱期、一九六〇年代の小劇場全盛の時代から今日に至るまで、舞台裏から、客席から現代演劇の現場の渦中にいた。

 その人生がこの本にうかんでいる。辞典という性質上客観的に書かれてはいるが、その筆の先から生々しい体験がこぼれる。温かい血が流れている。その血の熱さによって、本書は石澤秀二という激動の時代を生きた一人の演劇人の「自伝」になった。

 その「自伝」は当然時代に及び、歴史に及ぶ。すなわち面白さの第二点は、その演劇の歴史である。

 この本の目次には、まず西欧のギリシャ劇から現代演劇まで、つづいて日本の能・狂言、歌舞伎からはじまって現代演劇の鈴木忠志蜷川幸雄から野田秀樹平田オリザに至るまでの、各項目が年代順に並んでいる。これは一つの演劇史であり、この数頁(ページ)にわたる目次だけでも読む価値があるが、一転して本文中にはここに揃(そろ)った各項目が五十音順に並ぶ。

 そうするとなにが起こるか。

 たとえばジロドゥの「オンディーヌ」の次はモリエールの「女学者」がきて、いきなり歌舞伎の「女方(形)」になり、新派の名狂言婦系図(おんなけいず)」、近松の「女殺油地獄(おんなごろしあぶらのじごく)」、森本薫の「女の一生」になってアリストパネスの「女の平和」になる。その項目ごとに石澤秀二ならではの独特の作品論が書き込まれている。

 この俯瞰(ふかん)が楽しい。そこには古今東西、二千年の花園を逍遥(しょうよう)する楽しみがあり、作品単独に触れただけではとても到達できない取り合わせの面白さが、さながら連歌の如(ごと)く万華鏡の如く展開する。

 その面白さは当然のことながら、この二千年にわたる演劇の歴史、その演劇を創り享受してきた人間の歴史そのものを思わせずにはおかない。

 たとえばギリシャ悲劇の「トロイアの女たち」は、現代の鈴木忠志の演出によってどうなったか。あるいはシェイクスピアの「リア王」は現代の演出によってどう変わったか。その変化がわかる仕組みになっている。それは人間の二千年の歴史を旅する楽しみであり、演劇の原点とはなにかを考えさせるヒントでもある。読者は現代演劇の本質にふれると同時におのずからギリシャルネッサンスを遡(さかのぼ)って演劇の原点にふれることになるからである。

 それが時間の旅だとすれば、比較的近年の空間の旅もある。

 たとえば「自由劇場」という項目には、五つの劇場、劇団名が出てくる。まずエミール・ゾラとアントワーヌの、近代演劇発祥の劇場。二番目は、日本の新劇の先駆けになった二代目左團次小山内薫の劇団、三番目が、佐藤信串田和美の史上最初の小劇場。四番目が、現在の劇団四季の専用劇場、そして秋田雨雀の劇団名。以上五つ。これだけでも読者は歴史を遡ることができるが、それぞれの関係者に「*印」がついていて、そこに飛ぶとたちまち歴史を横断して四方の空間に想像力が広がる。その広がりを考えると、この辞典は、歴史的な記録や知識の宝庫であると同時に現在の演劇を考える上で本質的な本である。

 かつてフランスのディドロは『百科全書』を作って世界に大きな影響を与えた。人々はこの世界を俯瞰する本によって世界の見方を変え、その変化は時代の精神にまで及んだ。

 この本もまた演劇の見方を変え、新しい演劇の出発点になるだろう。なぜならば、いま、私たちにもっとも必要なことは演劇の原点を知ることだからである。それでなければ未来に出発することはできない。
    −−「今週の本棚・渡辺保・評 『世界演劇辞典』=石澤秀二・著」、『毎日新聞』2016年01月17日(日)付。

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