覚え書:「今週の本棚・若島正・評 『キャロル』=パトリシア・ハイスミス・著」、『毎日新聞』2016年01月24日(日)付。

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今週の本棚
若島正・評 『キャロル』=パトリシア・ハイスミス・著

毎日新聞2016年1月24日 東京朝刊
 (河出文庫・886円)

時代超越した女性同士の恋愛

 「ふたりは同時に目を合わせた。テレーズは開けていた箱からふと顔を上げ、女性はテレーズのほうに頭を巡らせたので、まともにお互いの目をのぞきこむことになった。すらりとした背の高いブロンドの女性が、ゆったりとした毛皮のコートを優雅にまとい、コートの前を開けてウエストに片手をあてている。瞳はほとんど透明といってもいいほどの薄いグレーだが、それでいて光や炎のように強烈な印象を与える。テレーズはその瞳にとらわれて目をそらすことができずにいた」

 映画「太陽がいっぱい」や「見知らぬ乗客」の原作者として知られているパトリシア・ハイスミスが、創作活動の初期である一九五二年に発表し、後に『キャロル』と改題された作品がついに翻訳された。なぜハイスミスが当初はこれをクレア・モーガンという別名で発表しなければならなかったのか、それはこの小説が女性同士の恋愛という主題を扱っていたからである。同名のタイトルで映画化されたものが米国で公開され、好評を博しているところからも、時代に縛られながらも時代を超えたこの傑作が正当に評価されるための、復権の時期がようやく訪れたと言っていいだろう。

 主人公は舞台美術家の卵で、十九歳のテレーズ。彼女はクリスマスの繁忙期にデパートのおもちゃ売り場でアルバイトをしていて、クリスマス用のプレゼントを買いに来たミセス・エアドという優雅な夫人に出会い、たちまち恋に落ちる。冒頭に掲げたのはその出会いの場面である。天啓に打たれたようなその瞬間の描写には、人が人に恋をするのに理由はいらないという真実がある。

 テレーズとキャロル。年齢も違えば身分も違う、独身女性と夫もいれば子供もいるという女性との恋愛を、ハイスミスは若いテレーズの視点から描く。テレーズの心理の襞(ひだ)に分け入った筆致は熱を帯び、その熱が読者にも感染する。キャロルを愛しているという、その事実だけに目を向けて行動するテレーズを、読者は最も自然なふるまいをするキャラクターとして受けとめ、愛(いと)おしく思う。

 一九五〇年頃、アメリカの社会では同性愛はまだ世間から厳しい目で見られていた。それは犯罪に等しいものと思われていた。テレーズとつきあっていた男性は、テレーズとキャロルの関係を汚らわしいものだとして、彼女と縁を切る。またキャロルの夫は、離婚係争中で、一人娘の親権を得るのに有利になる証拠として、二人の関係を使おうとする。二人の結びつきを貶(おとし)めようとした、こうした外部の人間たちのふるまいこそ犯罪的ではないのか、と読者が感じたとすれば、そのような認識の逆転をもたらしたのは、とりもなおさずこの小説の力であり勝利なのである。

 しかし、この小説は単に恋に狂っただけの物語ではない。二人の仲が親密になった結果として、彼女たちはそれまでとは違った人間に変貌する。テレーズの目に映るだけの、謎に包まれた人物だったキャロルも、読者の目の前で、自分を見つめて本当の心情をはっきり口にする女性へと変化する。そして「まだ子供ね」と言われていたテレーズも、独り立ちした大人の女性へと成長する。一九五〇年代のレズビアン小説というジャンルでは、結末は悲劇に終わり、たとえば自殺といった罰が与えられるのが定型だったが、『キャロル』はそのような約束事を破って、時代を超越している。ハイスミスの代表作が『キャロル』だと評価される日も、そう遠くはないはずだ。(柿沼瑛子訳)
    −−「今週の本棚・若島正・評 『キャロル』=パトリシア・ハイスミス・著」、『毎日新聞』2016年01月24日(日)付。

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