覚え書:「若松英輔の「理想のかたち」 第10回・対話と真理、霊魂 ゲスト・恐山院代(副住職)、南直哉さん」、『毎日新聞』2016年01月30日(土)付。

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若松英輔の「理想のかたち」
第10回・対話と真理、霊魂 ゲスト・恐山院代(副住職)、南直哉さん(その1)

毎日新聞2016年1月30日 東京朝刊
若松英輔さん(左)と対談する南直哉さん=東京都千代田区
 批評家、若松英輔さんの今回の対談相手は、青森県の恐山菩提(ぼだい)寺で院代(副住職)を務める曹洞宗僧侶、南直哉さん。南さんは寺の生まれではなく、西洋哲学にも詳しい。若松さんと、対話のあり方、真理や死、霊魂とは何かまで議論が深まった。【構成・鈴木英生、写真・望月亮一】

「意味」や「価値」とはいつも暫定的なもの

 若松 しばしば、初対面の方の悩みを聞かれるそうですが。

 南 そういうとき、まずは「僕と話しても問題は解決しませんよ」と言います。それで安心して話し出す人がいます。相手を開くためには、結論めいたことを言ってはいけないんです。ノックをして、ちょっと開いたら待つ。前提を外し、対話で新たな意味を作り出すようにする。

 若松 古代ギリシャでは、人間が2人で対話をするときに三つ目の席を準備して神々の臨席を仰ぎ、互いが真理を持っていないことを示したそうです。

 南 僕は、宗教家の三大ターム「真理」「こころ」「いのち」を敬遠しています。使うと、お互いが誤解したまま分かった顔をしてしまう。僕は、問いを共有していない人には話が伝わらなくていいと思います。そもそも、苦しくない人には、宗教なんぞいらんのです。宗教とボランティアは、ない世の中の方が幸せ(笑い)。ある考え方や真理なるものは、一定の条件でしか成り立ちません。真理は死と同じく、絶対に自らの経験にならないという意味で純粋な観念です。しかし、リアル。何か感覚的なものがそこにあるから。その感覚は、言葉にした途端に破綻し続ける。言語が破綻していく経験を捉え続けないと、真理や死は把握できません。

 若松 把握とは、いわば真理を壊し続けることですね。

 南 この徒労に耐え続けられるかどうか。ブッダ=注<1>=や道元禅師=注<2>=はおそらく耐えた。なのに、宗教家と称する人は、しばしば「私の言うことを聞いていれば大丈夫」などと簡単に言う。

 若松 人は、なぜそんな人の話を聞くのでしょう。

 南 何かに急いでいるからだと思います。道元禅師は「万事を休息せよ」と言われた。その意味を私は「休みを取れ」ではなく、「人生を無駄にしろ」だと思う。人生に意味があると思うと苦しい。無いと思えば違う視界が開ける。一般に、苦しみを取り除けば楽になるとされますが、仏教は苦しむ自己を消せばよいと説く。死に直面する人に話をするとき、まずは人生の意味という物語を一緒に作り、そこに死を位置づける方法がある。でも、ラジカルに「人生に意味なんてない。あっさり逝っちゃいな」と言われて、「そうか」と楽になる場合もある。過剰な意味を背負い込むと、人はかえって苦しくなることもあります。

 若松 過剰な意味は人に作られたもの。ほとんど不要なものです。

 南 ただし、人間は意味や価値なしで生きられない。それらが、暫定的で一定の条件でしか成り立たないと理解してほしいのです。

 たとえば、恐山は死者が中心の場です。おばあさんが、屋外に並ぶお地蔵さんに果物をお供えしては、「じいちゃん! 来たよー!」と手を合わせるといった光景をよく見ます。おじいさんは、生きているおばあさんに具体的な行動をさせる死者です。死んで存在しないのではなく、存在の仕方が変わった。霊魂や魂とは、その人の意味や価値のことでしょう。強い意味や価値は、本人が死んでも周囲の人の行動や考えを決定的に動かし、受け取る人が思い通りにできず、どうしても消せない。まさにリアル。問題は、このリアルに苦しむ人がいること。ならば、リアルの成立条件を、対話の中でどう緩和したり変えるかが大切です。

 若松 対話ではなく、自分と同じ考えを持つ人の群れにいることで安心し、異なる境涯にいる者を攻撃する人は多いですね。大声で同じことを言っても各人の胸中の苦しみや憎しみはまったく違う。

 南 同じとは、そもそも違うみんなが一緒に見る夢です。

 声はそろってもコミュニケーションがない。コミュニケーションは矛盾と相違にしか成り立たず、「わからない」が前提です。「私があなたを一番よくわかっている」という親に苦しむ子供は多い。「お前のためを思って」は、親の欲ですね。思い通りに動かしたいという欲。関係のつもりで所有をしたがる。所有欲は、自己存在の根拠、自我に対する欲望でしかない。若い人の言う「居場所」とは、「いるだけで存在を肯定される場」でしょう。これがないと人は評価を渇望する。誰しも、自己存在に確たる根拠はない。才能や地位や名誉を根拠にするか、それらがなければ、自己以外の何かを自己と見せかけるか、他人を攻撃して自分を持ち上げるか。これには、「仏教では、人間はたいしたことないと言ってるよ」と言って自覚してもらうしかない。

 ■人物略歴

みなみ・じきさい

 1958年長野県生まれ。早稲田大卒。一般企業勤務後、84年曹洞宗で出家得度。永平寺で約20年の修行など経て現職。福井県の霊泉寺住職も務める。著書『刺さる言葉』『善の根拠』『恐山 死者のいる場所』『賭ける仏教』など多数。
    −−「若松英輔の「理想のかたち」 第10回・対話と真理、霊魂 ゲスト・恐山院代(副住職)、南直哉さん(その1)」、『毎日新聞』2016年01月30日(土)付。

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若松英輔の「理想のかたち」
第10回・対話と真理、霊魂 ゲスト・恐山院代(副住職)、南直哉さん(その2止)

毎日新聞2016年1月30日 東京朝刊

祈る人しか救わない宗教は宗教ではない

 若松 人は本当に苦しいとき、祈ることさえできない。祈らなければ救われないと説く宗教は、宗教ではなく……。

 南 取引です。これでは、一般社会の話にしかならない。人間は取引の世界から逃れるのが難しい。うまく生きられる人は取引だけで十分ですし、取引で切ない思いをしている人も、ほとんどは取引で切なくならない方法を求める。そこからいったん離れないと、宗教の話ではありません。

 少しずらすと、仏教では自我や自意識は最終的に解消すべきだと考えてきましたが、今後これらは、デジタルの世界へ消えるかもしれません。脳にチップを埋め込んで即座に相手に考えを伝えられるようになれば、我々の知っている自意識はなくなる。いわばデジタル涅槃(ねはん)ですが、仏教はこれを拒否するはずです。なぜなら、簡単に自意識を消すのは、自意識を消したいという欲望と変わりません。釈尊の時代から、エクスタシーや自殺で自我が消えるのは錯覚だとされてきた。言い過ぎを承知で言えば、涅槃=注<3>=への到達は仏教の目的ではないのかもしれません。涅槃自体ではなく、涅槃へと向かう実存こそにテーマがある。

 若松 仏教は苦を大切にしますね。キリスト教の核は悲です。脳内チップだと苦と悲がなくなる。

 南 苦の完全な解決は現実には起こらない。でも苦の解消を目指すと言い続けることで、仏教者たり得る。


若松英輔さん
 若松 真の宗教は到達への歩みが大切と説くように思うのです。

 南 そもそも、キリスト教の原罪や仏教の無明(むみょう)といった考えは、今よく聞く「人は人であるだけですばらしい」ではなく、「人は人であるだけでダメ」。簡単に人間を肯定して、その錯覚のまま自信を持ち過ぎたり不安がったり、手っ取り早い答えを求めるのはいかがなものかと。ダメを自覚して互いを許し、どうすべきかを考えた方がいいと思いますね。

注<1>=この場合、仏教を開いた釈迦(しゃか)(紀元前5世紀ごろ)のこと。

注<2>=1200〜53年。日本での曹洞宗開祖。主著『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』は近代以降、西洋哲学界からも注目される。

注<3>=「さとり」と同義とされる。煩悩の火を吹き消した状態。釈迦の死を指すこともある。

対談を聞いて

 涅槃ではなく「涅槃へと向かう実存」を重視する南さんの言葉に、マルクスの「われわれが共産主義と呼ぶのは現在の状態を止揚する現実的な運動である」(『ドイツ・イデオロギー』)を思い出した。この場合の共産主義も、到達する理想ではなく「へと向かう」過程にある。理想に到達しつつあると思い込んだ途端、社会主義国は恐怖支配から崩壊へ歩み出した。「理想」のかたちが前提とすべき最低限の「倫理」は、ここにある気がする。【鈴木英生】=次回は2月27日掲載

 ■人物略歴

わかまつ・えいすけ

 1968年新潟県生まれ。慶応大卒。『三田文学』前編集長。「越知保夫とその時代」で三田文学新人賞。著書『井筒俊彦 叡知の哲学』『死者との対話』『吉満義彦 詩と天使の形而上学』『叡知の詩学 小林秀雄井筒俊彦』など。
    −−「若松英輔の「理想のかたち」 第10回・対話と真理、霊魂 ゲスト・恐山院代(副住職)、南直哉さん(その2止)」、『毎日新聞』2016年01月30日(土)付。

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若松英輔の「理想のかたち」:第10回・対話と真理、霊魂 ゲスト・恐山院代(副住職)、南直哉さん(その1) - 毎日新聞

若松英輔の「理想のかたち」:第10回・対話と真理、霊魂 ゲスト・恐山院代(副住職)、南直哉さん(その2止) - 毎日新聞



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