覚え書:「耕論:ゲゲゲ愛、あらためて 保阪正康さん、夏目房之介さん、小松和彦さん」、『朝日新聞』2016年02月06日(土)付。

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耕論:ゲゲゲ愛、あらためて 保阪正康さん、夏目房之介さん、小松和彦さん
2016年2月6日

 漫画家の水木しげるさんの「お別れの会」が先月31日に開かれて、8千人が参加した。水木さんがこれほど愛されたのはなぜだろう。亡くなって2カ月余。今、あらためて考えた。

 ■戦争の愚を示した「人間」 保阪正康さん(ノンフィクション作家)

 あまり知られた話ではないのですが、天皇陛下水木しげるさんをログイン前の続き巡る、あるエピソードを紹介しましょう。

 陛下はよく知る人に「お会いして、話したい」と水木さんへの伝言を授けられました。しかし水木さんは渋りました。緊張するし、恐れ多くて、と。今から1年前、昨年2月のことです。

 陛下は皇后陛下とともに戦没者の慰霊に心を砕いてこられたし、今も砕いておられる。しかし先帝の時代とはいえ、「天皇」の名の下に戦って命を落とした600万もの人たちを思えば、にこやかにお会いできるはずもない。お会いすれば、昭和天皇への複雑な心情を吐露せざるをえなくなる。水木さんはそれがわかっていた。だから言葉を選びながらも面会を避けたのでしょう。その選択が水木さんからのメッセージだったのだと思います。

 第2次大戦で、陸軍二等兵として南方戦線に送られた水木さんは「総員玉砕せよ!」「ラバウル戦記」などの作品で戦地の日常を淡々と描きました。毎日のようにビンタを浴びたこと。見張り台でオウムに見とれて帰陣が遅れ、一命を取り留めたこと。みずからの「なまけもの」ぶりもあっけらかんと描いています。戦場となった島の自然の豊かさに「天国気分」「心の楽園」とつぶやき、敗戦後は現地除隊を申し出るほど地元民と深く交流した。印象的なのは、殺すか殺されるかという場面でも人間性を守り抜いたことです。

 上官の命令が絶対の軍隊で自分の思い通りに振る舞えば、必然的に軍への異議申し立てになる。しかし人間として生きた。しかも、誠実に。「天皇の赤子」や「臣民」ではなく、ひとりの独立した「人間」としての視点を持っていた証しです。だからこそ戦争の本質、旧日本軍の愚かさをあぶり出せた。だからこそ戦争を知らない世代にも作品が届いた。

 戦争をめぐる証言や記録は数多くありますが、大半は肯定するか否定するか、です。政治性を帯び、自己正当化のための作為やうそが交じる。でも水木さんは違います。「90%は本当にあった」と書き、10%の脚色を認めている。語りが商品化される負い目もうかがえる。だから信頼できる。政治性から自由であるというのはそれほど希少なのです。それゆえ、戦争を政治的に色づけして語りたい人たちからは評価されませんでした。

 水木さんは「戦争反対」という言葉を口にしなかったと聞きます。左腕は米軍の爆撃で失われた。欠落を抱えた肉体には終生、戦争が刻まれていた。だからこそ大きな言葉や情緒的な語りではなく、事実を淡々と伝えることに徹したのだと思います。

 (聞き手・諸永裕司)

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 ほさかまさやす 39年生まれ。04年、昭和史研究で菊池寛賞。共著に「『昭和天皇実録』の謎を解く」など。

 ■怖さよりほっとする世界 夏目房之介さん(マンガコラムニスト)

 水木さんの登場人物って、驚く時に「フハ」って言うんです。水木さんには、そう聞こえたから、そのまま描いた。そこが、水木マンガのおもしろいところです。

 ぼくらマンガ研究者は、戦後のマンガを代表するのは手塚治虫さんだと考え、論じてきました。手塚マンガはモダニズムの世界です。物語も展開もかちっとしています。

 でも水木マンガはぜんぜん違う。例えば、どう考えてもストーリーに関係ないエピソードが延々と続く。鬼太郎とねずみ男が喫茶店で音楽を聴きながら雑談しているとか。物語にとっては無駄です。でも水木さんは、これを描きたいんですね。手塚さんのような物語の展開と絵の密接な関係には、あまり興味がなかったのでしょう。

 で、そのあと事件が起こることは起こるんだけど、割と短く終わってしまう。あの、なんともすっとぼけた展開。

 手塚さんは嫉妬したらしいですよ。自分には描けない世界だと思ったのでしょう。

 当時の子供向けマンガは、手塚マンガもそうですが、線が閉じています。ディズニーのアニメもそう。それが当たり前でした。しかし水木さんが描く人物や妖怪は、線が閉じていないことが多い。結果として人物が茫洋(ぼうよう)とした、ふわふわした存在になるんですね。日常とは淡々と、ふわーっとしているものだ、人が生きているとはこういうことだ、というのが本人の中に確固としてあったと思います。

 その日常を、いきなり断ち切るように悲劇が起きて、死んでしまう。南の島に兵隊として送られた戦争体験が大きく作用しているはずです。

 捕虜時代に描いたスケッチが残っています。見ると、以前の絵と違う。絵とは時間がどうしても入り込むものですが、この時は時間が止まっている。生命感が感じられません。時間が止まるとは死ぬということです。これはぼくの想像ですが、水木さんは、捕虜時代に一種の臨死体験をしたんじゃないか、「異界」との境界にいたんじゃないか、と思っています。

 妖怪もそこから生まれてきたと思う。あの人、妖怪を見てないですから。生前、「見えましたか」って聞いたら、「いや、感じるんです」って言っていました。

 だけど、それを感じる状態っていうのは多分、意識変容の状態です。あの戦争体験の中でそういうものを感じ、「ここに異界がある」と思ったのでしょう、きっと。

 水木さんが描く妖怪は、怖いというより面白い。怖さの向こうに安逸、ほっとしてしまう世界があります。水木さんが書いた「ゲゲゲの鬼太郎」の歌詞は、「試験も何にもない」「楽しいな、楽しいな」でしょう。この思い、本気だったと思いますよ。

 (聞き手・編集委員 刀祢館正明)

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 なつめふさのすけ 50年生まれ。学習院大学教授。マンガ批評で99年に手塚治虫文化賞特別賞。著書に「マンガと『戦争』」など。

 ■妖怪、現代に復活させた 小松和彦さん(民俗学者

 「ゲゲゲの鬼太郎」がテレビに登場した1960年代後半は、暮らしの中にテクノロジーが入り込み、手つかずの自然や農山村は開発や過疎化で失われ、妖怪の「気配」は消えかけていました。一方で人々が「モノより心の豊かさ」と考え始めた時代です。失われた山里の景色やお年寄りの語る昔話に、郷愁を感じる人も少なくなかった。

 水木さん自身、幼少期を過ごした鳥取県・境港の町に特別な思いを寄せ、自伝的エッセー「のんのんばあとオレ」で、郷里を“妖怪の棲(す)む世界”として描きました。お手伝いのおばあさん「のんのんばあ」が教えてくれた不思議な物語の感動は、大人になっても彼の宝物でした。左腕を失い生死の境をさまよった過酷な戦争体験と、幼少期から大事にしてきたファンタジー。実体験と想像力を足場にした妖怪の世界だからこそ、水木作品は独特の強度を持っていたのだと思います。

 そういう内的な動機で描いていると、発想の源が枯渇しがちですが、水木さんは人気が出た後も民俗学歴史学、美術史学など、多分野の資料に横断的に当たり、素材を集め続けました。

 江戸時代の浮世絵師、鳥山石燕(せきえん)の妖怪画、仏教哲学者、井上円了の妖怪研究、各地の説話。民俗学者柳田国男の「妖怪名彙(めいい)」に記された説話だけの妖怪を、水木さんは自分の想像で描き、研究者にも知られていない妖怪画を掘り出し、作品に登場させたこともある。私も水木さんの絵を「元祖」と信じ込んで、後でそっくりの妖怪画を見つけた時は「やられた!」と仰天しました。

 一部の専門家、研究者しか関心を寄せていなかった妖怪を過去から現代に連れ出し、漫画という新しい手法で表現した。そうして生まれた作品「ゲゲゲの鬼太郎」がヒットしたことで、妖怪を大衆文化の中に復活させた。漫画家の枠を超えた、水木さんの大きな功績の一つでしょう。

 身近な人を亡くすと、強い風で扉が開いただけでも、故人が訪ねてきた、と思う。人の心は時として、その人自身も制御できない動きをするものです。科学で説明できないけれど「いる」と感じてしまう。人が無意識に感じている死への不安、恐怖といった負の感情が、妖怪を「いる」と思わせるのです。そういう精神のメカニズムを考えるのが、妖怪研究の意義です。水木さんもそこに関心があったはずです。

 しかし、ダークな世界観を持つ「墓場鬼太郎」は、アニメ化にあたって「ゲゲゲの鬼太郎」となり、トゲや毒が薄められた。キャラクターコンテンツとして消費するだけでなく、発想の源である妖怪研究の学問的、社会的価値も守っていくべきだと思います。

 (聞き手・寺下真理加)

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 こまつかずひこ 47年生まれ。国際日本文化研究センター所長。著書に「異人論」「神なき時代の民俗学」「妖怪文化入門」など。
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http://www.asahi.com/articles/DA3S12196481.html





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