日記:今、必要とされる「グローバルな市民社会と市民宗教の可能性」

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 たとえ国家レベルでも、連帯は脆弱であり、人間は恐怖から敵とされた者に対して負の連帯をするほうが容易である。たしかに世俗的な哲学には、そのことを扱う方法がある。しかし私が論じてきたように、真に地球的規模での連帯の感覚を強化して一般化する能力が宗教にあるのであれば、それは自己批判において、自己批判をとおしてのみなしうる。私がすでに示唆したことをわかりやすく言おう。キリスト教、とくにプロテスタントキリスト教は、人権と人間の連帯の制度化に重要な貢献をしてきた。私は権利憲章の宗教的なルーツについてアメリカの例をあげた。そこに福音主義的な社会的な福音運動を率い、(カトリックの社会教科に根ざした支援を受けながら)二〇世紀半ばにアメリカにおける福祉国家の樹立の先駆けとなる動きをつくりだす重大な役割を果たしたことを付け加えねばならない。しかしキリスト教、とくにプロテスタントは、急進的な自律という世俗の観念を魅力的なものにする個人的な敬虔さの強調に貢献してきた。マックス・ウェーバーは、プロテスタントの倫理と資本主義の精神とのつながりを見いだした。ウェブ・キーンは、グローバルなプロテスタンティズムネオリベラリズム経済学との関係を示唆してきた。私が宗教は解決策の一部であると同時に問題の一部でもあると言ってきたのは、これらの点に関してだ。そして、もしキリスト教自己批判をとおしてのみグローバルな連帯の創出に貢献しうるとしたら、他のすべての宗教や世俗的な哲学にも同じことが言えるだろう。私たちの現在の世界的な危機において悪人から善人をより分ける方法などない。私たちはみな互いを必要としており、とりわけ相互に補強しあう重大な理由と深遠な信仰心が必要なのだ。
 いま世界が必要としているのは、たくさんのレベルで、グローバル、ナショナル、ローカルのレベルの宗教、イデオロギー、政治において進み続けることである。しかし、どんなにその実現が困難であっても、ハーバーマスのシナリオが要求しているひとつのことはとても明白だ。私たちは、いま世界の市民になるというアイディアを実際的な市民権に変え、進んで私たちが市民であるところの世界に責任を追わなければならない。私はすべての国に、必要なコミットメントを果たそうとする何百万もの人びとがいることをたしかに信じている。どこであれ彼らが多数派で、政治家が一部の構成員の短期的な利益に迎合する代わりに彼らの声を聞くようになるとは思えない。私たちに必要なのは、増えつつあるマイノリティを効果的なマジョリティにしていくことなのだ。
    −−ロバート・N・ベラー(松村圭一郎訳)「グローバルな市民社会と市民宗教の可能性」、ロバート・N・ベラー、島薗進、奥村隆編『宗教とグローバル市民社会 ロバート・ベラーとの対話』岩波新書、2014年、23−24頁。

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