覚え書:「東日本大震災5年:『三陸世界』と復興 山内明美さん」、『朝日新聞』2016年02月18日(木)付。

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東日本大震災5年:「三陸世界」と復興 山内明美さん
2016年2月18日
 
 東北沿岸の被災地では、巨費を投じた復興工事が進む。安心で安全な地に変えるために。でも、それだけでいいのだろうか。宮城県南三陸町で生まれ育ち、震災後の再生に携わってきた歴史社会学者の山内明美さんは、三陸に受け継がれてきた生き方や風土から、これからを問い直している。現地を訪ね、一緒に歩いた。

 《海に面した旧市街地で、盛り土の工事が進む。10・6メートルかさ上げする計画だ。造りかけのピラミッドを思わせる巨大な土の山々が、鉄骨だけになった防災対策庁舎跡を見下ろしている。》

 ――すごい規模の工事ですね。4年前に来たときの、何もなかった状態とは様変わりです。

 「いまの復興事業は、私には三陸沿岸を津波のおそれのない地域と同程度まで改造しようとしているように見えます。三陸が長年抱えてきた自然のリスクなんて、もう受け入れないぞ、と。近代の論理でいえば一見正しいのですが、それによって、三陸の人びとが生かされてきた風土は失われてしまいそうです」

 ――どういうことですか。

 「この5年、勤務先の東京と南三陸を月に何度も往復してきました。地元での活動を進めたり、学生たちを連れてきたり。震災後の三陸に通ううちに『三陸世界』とでも呼びたい、独自の生き方や価値観、風土の存在にあらためて気づきました。近代社会が追い求めてきた、自然に立ち向かう強靱(きょうじん)さや合理性とは全く違うものです。三陸の人たちは大津波や飢饉(ききん)など、過酷な自然と折り合いをつけながら生きてきたのです」

 《町の南部、戸倉地区水戸辺の小さな漁港。今も港の近くに住宅はない。漁師夫婦がワカメをゆでている。高台に江戸時代の石碑が建っている。》

 「ここには『鹿躍(ししおど)り』という、江戸時代から漁師が継承してきた、死者を供養する踊りがあります。『シシ』とは四つ足の獣のこと。伊達藩の文書には、約400年前に村が全滅する大飢饉があり、その供養で鹿躍りが奉納されたという記録があります」

 「石碑には『一切の有為(うい)の法躍り供養奉るなり』とあります。地元の人によると『この世にある一切を躍って供養する』という意味だそうです。一切とは、木も草も動物も人も土も海も、です」

 ――海も供養するのですか。

 「そう、全部です。陸も海も大事にする。そういうメンタリティーからは、あれほどの巨大開発や、陸と海とを切り離すような復興計画は出てこなかったでしょう。守られるべきなのは人だけではない。自然を含めすべてを守り、その中で人も守られる、ということですから。厳しい自然環境を前に、生きることとは、もろくてはかないものだ、と認識せざるをえない。そのことを象徴するものがあります」

 《北西部の山中に入る。入谷地区の「ひころの里」にある旧家の松笠屋敷。母屋の神棚に、切り紙の御幣が飾られている。近づいて見ると、魚や網の形をしている。》

 ――見事ですね。

 「タイが網にかかっている様子を紙で表現して、神様に大漁を感謝しています。『えびすの幣』といって、岩手県南部から宮城県にかけて沿岸部に集中的に残っている正月のお飾りです。神社の神主さんが一子相伝で切り方を身につけ、毎年年末に氏子に配ります」

 ――素材は和紙ですか。

 「障子紙です。もろくて、はかなくて、繊細で、すぐに汚れる。風になびいたり、さらさら音を出したり。そこに人々は神様の訪れを感じるのでしょう。長く大事にして継承してきました」

 「一方、近代社会は強くて、大きくて、分厚くて、強靱なもの、永久に続くものを求め、作ろうとします。現在の復興工事がまさにそれですね。『近代』が、三陸ならではのものが生まれる場所を埋めている。私にはそんな気がしてなりません」

 ――山内さんの言う「三陸世界」は近代とは合わない、ということですか。

 「私だって、なんでも反近代、ではないですよ。東京から新幹線と車で南三陸に帰ってこられるのは、近代のおかげです。ここだって既に、近代の一部です」

 「三陸の人たちに対して、なぜこんなへんぴで危ない場所に住んでいるんだ、安全なところに移ればいいのに、といわれることがあります。でも、三陸の強みは、海があって山があること。リアス式海岸は、大津波が来たら被害はめちゃくちゃ大きい。でも、普段はものすごく魚が寄ってくる場所なんです。とても豊かな場所なんです。だからずっと人が住み続けている。何回津波が来ても」

 「津波をはじめ圧倒的な自然への畏敬(いけい)なしに、三陸での暮らしは成立しません。ここの住人は自然に打ち勝つなどということは考えもしません。それがいま、まちの論理で、近代知だけで、復興を進めてしまっている」

 ――とはいえ、自然への対策を打たなければ住民を守れません。

 「まちの人にとってはそれが正しい。その通りです。でも漁師の論理は違います。三陸に住む限り、いつか津波に遭うことは避けられない。漁師はそれをよく知っている。津波と一緒に生きるというふうに思っている。だから、『一切を供養奉る』なのです。津波さえ供養する」

 「漁は危険を伴う生業です。そのかわり海からものすごくいろんなものをもらってきた。三陸の人にとっては、そこに海との『経済』があるんです」

 「一方的に人間だけが守られて安全だというような状況は、海との関係性でいったら、人間だけ得していることになってしまう。少なくとも海と陸を分断する考え方は、三陸の発想から生まれたものではないです」

 「三陸から沖に出て流されたら、あるのは圧倒的な大海原です。対岸なんてない。太平洋へ向き合うときの心情とは、無限の絶望感ではないか、と思います。かなわないという気持ち。それが『三陸世界』です。もともと『負け』から始まっている。それでも三陸で暮らそうと思うなら、ここで豊かさを求めるなら、津波と折り合いをつけて暮らすしか道はないと思います」

 ――厳しい見方ですね。

 「そうかもしれません。でも、ここの人たちはそうやって困難を乗り越えてきたのです」

 「そこへ、海や山の形を変えてしまうような大開発が入ってきました。これで本当に住民を守れるのか。逆に将来のリスクを大きくしてしまうのでは」

 ――将来のリスクとは。

 「巨大な防潮堤にしても高台のアパート群にしても、作っただけでは終わりません。将来の維持補修費だけでも相当の金額になるはずです。既に財政再建を余儀なくされている地方自治体の多くは、公共事業を連打した後に立ちゆかなくなります。前例はいくらでもあります。少子高齢化が進むなかで、次の世代、さらに次の世代に負担を与えてしまうことは確かだと思うのですが」

 《海を背に、町役場のある高台に向かう。山が大きく削られている。公営団地の造成現場だ。》

 ――では、どうすれば。いまからできることはありますか。

 「すでにこれだけ工事が進んでいますからね……。難しいです。あえて言えば、人口が減っていくのだから、今からでも小さくできるものは小さくする、なるべく作らない、なるべく手を引く。役場の職員は何もしないのかという批判に耐え、小さくしていく。これでしょうか」

 「私自身は1次産業にこだわっています。農林水産業でこの町の人たちが食べていくにはどうするか、考え、活動しています。それが『三陸世界』の生きる道だと思うからです」

 「ここでは住民の7割が被災したのに、餓死者も野宿者も放置児童も出ませんでした。地域の支え合いが生きていたからです。一軒一軒の所得は高くなくても、海や山のもの、家の庭でとれたものなどをゆずりあって暮らしてきました。食うに困らない地域でした。海も山もあるのに、食うことにさえ困る地域になっては大変です」

 「高台移転で立派な団地ができたはいいが、なじんだ共同体は壊れ、生活のありようががらりと変わってしまうのでは――。心配なのはこれからです」

 「都市社会が脆弱(ぜいじゃく)なのは、いざというときの食料確保が困難なことも一因です。比べて『三陸世界』には、近代を包み込んでも余りある知恵があります。それを損なわないで復興できれば、ひょっとして、新しい社会の構想や姿が見えるかもしれません」

 (聞き手 編集委員・刀祢館正明)

 ■南三陸町の再生に携わる大正大学准教授・山内明美(やまうちあけみ)さん

 1976年生まれ。宮城県南三陸町役場の臨時職員などを経て現職。NPO法人「東北開墾」理事。共著に「『辺境』からはじまる」など。
    −−「東日本大震災5年:『三陸世界』と復興 山内明美さん」、『朝日新聞』2016年02月18日(木)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12214167.html


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