覚え書:「東日本大震災5年:私たちは変わったのか:4 天変地異と心 解剖学者・養老孟司さん」、『朝日新聞』2016年03月11日(金)付。

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東日本大震災5年:私たちは変わったのか:4 天変地異と心 解剖学者・養老孟司さん
2016年3月11日

「いったん何か起こった時、ちゃんと対応するには普段から正気を保つしかない」=天田充佳撮影
写真・図版
 日本列島の下では太平洋、ユーラシアなどのプレートがせめぎ合っている。大地震や火山の噴火など天変地異が絶えない中で、国民性が形づくられ歴史も紡がれた。このうち、関東大震災軍国主義化の契機になったと解剖学者の養老孟司さんは見る。東日本大震災や来たるべき大地震が日本人の脳みそや心に与える影響を聞いた。

 

 ——東日本大震災の直後、「戦前、日本が曲がっていったのは関東大震災からではないかと考えている。大正デモクラシーがなぜ、軍国主義に変わってしまったか。震災の影響が非常に大きかったのではないか」と言われました。東日本大震災から5年。改めて天変地異が日本人の脳みそや心にもたらす影響について教えて下さい。

 「脳は言わば入出力装置ですが、例えば『見る』という入力の結果、頭の中で意識が生じる。それらが頭の中に入って、ある種のルールを形作るのです。外界から受けた影響が残るわけです。つまり、五感の結果が、心を形作るのに非常に大きな影響を持っています」

 「それまでの経験に基づいて脳のルールができる。そこで突然、従来受け入れてきたものと極端に異なる知覚、感覚にぶち当たると、脳は受け入れを嫌うんです」

 「また、脳のルールは感覚を一切刺激しないようにつくられます。だから気温も一定、座敷の床もでこぼこしなくて硬くない方がいい。これは変化を脳が嫌うからです。都市化という現象も、環境を知覚にできるだけ影響を与えないような姿に変えていった結果で、それを進歩した社会と言っている。僕はこれを『脳化社会』と呼んでいます。心地よい都会生活を謳歌(おうか)している現代日本の都市文明は、脳化社会の典型です」

 「逆に外部から知覚、感覚が暴力的に入ってくるような事態を脳みそは嫌います。大震災などの天変地異が起こると、それぞれの人の脳に、暴力的ともいえる勢いで外部の事象が攻め立ててきて、意識の世界が妨害されます。『想定外だ』と騒ぐのも、考えたくもなかったイヤな事態の連続に直面しての反応です。こうした未曽有の事態に直面した人間の脳みそは、それまでとは大きく変わったものになってしまう」

 ——関東大震災で約10万人が亡くなり、快適な都会生活は一瞬で阿鼻叫喚(あびきょうかん)の現実に変わりました。

 「東京の下町や横浜が一面の焼け野原になった。少し前まで、豊かな都市生活が繰り広げられた場所に、焼け焦げた遺体が無数に転がった。それを目の当たりにする経験をした人々の心には、非常に深刻な影響が残りました」

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 ——朝鮮人が虐殺され、無政府主義者らが殺される事件もあり、狂気の嵐が吹き荒れました。

 「修羅場を体験した人は、あれから自分が変わったと思ったはずです。大震災から戦争まで一直線に流れていったのは、一晩であまりに多数の死を目撃して『あれが現実だよね』といった生の不条理に直面したことで、命をめぐって心に大転換が起きたからでしょう。『このくらいの暴力ならやってもよいだろう』。人間の命の値打ちが軽くなり、戦争を始めるハードルも低くなった。あれほど絶望的な戦争が延々と続いたのも、大震災で心の大転換があったからとしかいいようがありません」

 「悪い影響ばかりとはいえません。首都を直撃したことで国家の要人らが惨状を自ら見て聞いて体験した。中には昭和天皇もいた。1945(昭和20)年の東京大空襲の後、天皇自ら被災地を視察した。大震災に遭遇したから、同じ焼け野原の現場を見ておこうと考えたと思う。『戦はこれ以上続けられない』との考えを生み、その後の終戦の『聖断』へつながったと思えてならないのです」

 ——先の戦争では随分悲惨なことも起きました。敵との戦いで死んだ人だけでなく、味方の将兵に殺された悲劇もあったそうです。

 「人というものは、極端な状況に置かれると、そういうことをするもんだと思うんですね。問題はそうさせてしまう状況にあるのです。人は状況に依存して生きている。一神教キリスト教のように強力な神を持たない日本人は、神の目を恐れるというブレーキがないので、状況を安定させないと、思いきり変わってしまう危険性がある。であれば、状況を変えない、というのが日本人が持つべき最大の知恵でしょう」

 ——しかし、東日本大震災ではブレーキが壊れるような事態はありませんでした。むしろ、被災した人たちの整然とした態度が称賛されました。

 「物流も確保され、食料も深刻な危機にはなりませんでした。人間を変えてしまう恐ろしい飢餓は起きなかったのは幸いでした」

    ■     ■

 ——関東大震災のような、歴史を変える心のトラウマが東日本大震災をきっかけに生じることはありませんか。

 「発生当初は懸念しましたが、5年たってみると、悪影響はないか、あっても小さいもので済んだようです。被災地は豊かな自然が残されており、東京のような『脳化社会』ではなかった。明治、昭和と大津波も何度も経験してきた。心は立ち直れるでしょう」

 「むしろ、今後の被災地で懸念されるのは、その他の地域の記憶から、忘れ去られることです。東北は面積は広大でも人口も経済規模も日本全体の1割にもならない。加えて、日本列島は東北以外でも、天変地異が時々起きる。新たな災害が起きると以前のものの記憶は消えていく。数の論理から見ても、大震災の記憶は人々の記憶から消去されざるを得ない」

 「そうなっていく背景には東北の人たちの温厚さもありはしないか。東京にあらがう大阪や、過疎地なりに元気を持とうと葛藤する鳥取、島根などとは違います。苦渋があまりに大きすぎて、お上に従えば悪いようにはならないと信じたいのでしょうか。貴重な自然や伝統文化が残されているのだから、世界に呼びかけて『新しい郷土を造りたいのだが、知恵を貸してくれ』と呼びかけるのに非常に有利な地域なのに、そうはならない。住民が言わなければ誰も手伝いようがない。気がつけばお役所発注の巨大防波堤ばかりできている。これでは、ますます忘れられてしまわないか、心配です」

    ■     ■

 ——この列島に住む限り、大震災や噴火などと縁が切れるわけではありません。

 「問題はこれから確実に起きる南海トラフ地震や、首都圏直下型地震など、日本の中枢や人口の集積地域を襲う大災害で起きるトラウマや狂気への備えです」

 「何より物流が大変だと思います。とりわけ拠点である東京の機能停止が長期化すれば、もう地獄でしょう。季節も重要です。冬場なら寒さしのぎで火事が頻発するだろうし、夏なら夏で、身の回りのあらゆるものが腐乱して、伝染病が蔓延(まんえん)しかねない。想像を絶することが起きても、政府も誰も対応できない。人の心に、大変な衝撃を与えるでしょう」

 ——そんな修羅場を、数千万人単位の日本国民が体験するとしたら、戦後初めてのことです。

 「多くの若者を戦場に送り込んで暴力的な体験をさせてきた米国などのようなことは、幸いにして日本はしてこずに済んだ。ただ、修羅場に対応するには荒療治が必要な場合もあることは確かです」

 ——荒療治とは物騒ですね。

 「だったら、修羅場に直面しても、のみ込まれない冷静さを日頃から培っておかねばならないでしょう。外部の世界に向かって常に開かれた姿勢を取っているかが大事です。それには人間を除いた自然界が、人間の価値観と関係ない力学で動いていると直視することから始まります。自然に善悪はありません。自然食品がことさら優れているわけでもなく、台風、噴火イコール悪でもない」

 「外部世界をニュートラルに見ない社会は狂ってしまいます。既成のシステムも、その時限り、今の状況に過ぎないのに、これからも未来永劫(えいごう)、維持されると思い込む。それは頭の中毒です。中毒の行き着く先は原理主義です」

 「原理主義イスラムの産物ではありません。我々の国は富士の裾野で造られたサリンが東京でまかれた経験を持っています。脳に心地よい都市生活と、脳にありがたいと思う原理指導者の指図とは紙一重です。外部に心を開かぬ頭の中毒に陥った知的エリートが喜々としてやった。連中には『あんた、本気で富士山見てた?』といいたくなる。でも彼らは特殊ではない。今後、避けがたい大震災が、中毒にかかりやすい現代日本人の脳みそに襲いかかるのです」

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 ようろうたけし 1937年生まれ。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入り医学部教授を95年に退官。「唯脳論」「バカの壁」「養老訓」など著書多数。

 ■取材を終えて

 「一日、15分でよいから人間がつくらなかったものを見たほうがいい」と養老さんは言う。自然が膨大なエネルギーを一気に放出する大震災は、脳が心地よいと感じて出来上がった現代社会を、一瞬で根こそぎ破壊する。その後、私たちを包むかも知れぬ狂気の嵐に巻き込まれないため、私は養老さんの提案を愚直に続けてみたい。

 (編集委員・駒野剛)

 ◇最終回の明日は震災が問いかける「公と私」の関係について、映画監督の海南友子さん、宮城県女川町長の須田善明さん、政治学者の牧原出さんの3人に聞く予定です。
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http://www.asahi.com/articles/DA3S12251666.html





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