日記:文化内受肉はどこ吹く風で、権力に「褒められて」うれしいというお粗末さ(憐れ

Resize1343


ひとつひとつの議論は、議論に即して正論であったとしても、それを関係なく並べてしまって、用意された結論を持ち出してきても、結論を導くための議論が、その結論を補完するものでない場合、用意された結論を弁証(アポロギア)することは、言うまでもなく不可能である。これが「論理学」というものでしょう。

さてと・・・。
神学を修めたものとして一言。

concordatumは時代と環境、そして立ち位置によってその意義は変わるものでありますが、文化内受肉という意味では積極的な意義は見いだせる。しかし、それはあくまで文化内受肉という観点がなければ意義がない。

宗教者の政治参加の議論は、アベ晋三が四月会に参加して憲法20条を盾に否定しようとしたが、否定のしようがない「普遍的原理」であることに注目しておかないと意味が無い。

わかる人だけにわかる話。

パッパラパーはスルー。笑い。

誰が何を承認するのか。承認されてうれしいのか。およそ世界宗教は、承認されることを否定はしないものの、それが生ー権力である場合、アホくさいと理解するものである。

同時にこうした議論で丸め込めることができる(丸め込まれる人間のバカさかげんは横に置きますが)と高をくくっている連中の低能さと節操なさを可哀想になってしまう、程度の「慈悲」は持ち合わせている。



Resize1057