覚え書:「今週の本棚 鴻巣友季子・評 『屋根裏の仏さま』=ジュリー・オオツカ・著」、『毎日新聞』2016年04月03日(日)付。

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今週の本棚
鴻巣友季子・評 『屋根裏の仏さま』=ジュリー・オオツカ・著

毎日新聞2016年4月3日 東京朝刊
  (新潮クレスト・ブックス・1836円)

戦時下の「写真花嫁」たち
 ジュリー・オオツカはデビュー十数年、寡作の書き手だが、米国のPEN/フォークナー賞や仏国のフェミナ賞をはじめとする国際文学賞を受けており、いま最注目の気鋭作家の一人だ。カズオ・イシグロのような日本生まれの作家ではなく、カリフォルニア在住の日系一世の父と日系二世の母との間に生まれ、元々は絵画を専攻しており、彼女の小説の作風を「墨絵」に例える評者もいる。ディティールや内面描写を排し、「そっけない」と言っていいほど飾り気のないミニマルな短文を重ねていく。登場人物にはしばしば名前がない。

 『屋根裏の仏さま』は第一作の『天皇が神だったころ』に続き、日本を題材にしている。20世紀初頭に写真だけの見合いで、米国や南米の日本人移住者の元へ嫁いでいった「写真花嫁」たちの物語だ。作中の一章「Come,Japanese!(来たれ、日本人!)」がイギリスの文芸誌『グランタ』に掲載された際には、同作への「応答」の形で、日本の中島京子が日本人側からの視点で「Go,Japanese!」という短編を発表した。

 本書の語り手の人称は「わたしたち」だ。一人称複数形で語られる(語られだす)小説には、近年では、カメラアイの手法を導入し事実上の三人称多視点機能をもつ村上春樹の『アフターダーク』や、土地が語っているような辻原登の『許されざる者』、古くはコンラッドの『闇の奥』、フローベールの『ボヴァリー夫人』などがある。それらの「わたしたち」が、ナレーターまたはギリシャ悲劇のコロス(語り手集団)的な存在として、作中人物を外側から語るのに対し、『屋根裏』の「わたしたち」は語り手であると当時に、ストーリーの当事者でもある。たとえば、こんなふうに書かれる。

 「船でわたしたちは、新しい生活に必要なありとあらゆるものを詰めたトランクを抱えていた。初夜のための白い絹の着物。普段着の色鮮やかな木綿の着物。(中略)母からもらった銀の鏡。母の最後の言葉が今も耳に響いた。あなたもいつかわかるわ、女は弱し、されど母は強しってね。」

 特定の女性のことが書かれるときも、主語は「わたしたち」だ。多種多様な体験や言葉(個人が発した台詞(せりふ)はゴシックで記されているようだ)が、断片的にはっきりした区別なく混ざりあっている。名前は時々出てくるが、ひとつの個性をもったキャラクターとして育っていくことはない。一種の集合記憶のように混沌(こんとん)としている。

 夫となるハンサムな若者の写真を胸に抱いてやってきた「わたしたち」は、「ニット帽をかぶり、みすぼらしい黒い上着」を着た中年の男性集団に出迎えられる。写真は二十年前のものであり、「わたしたち」には過酷な畑仕事や重労働が待っていた。雇い主の男に手をつけられることもあった。子どもをたくさん産みすぎて難産になり、亡くなる者もいた。

 第二次大戦下で、「わたしたち」にはこれまでと違う試練が訪れる。それまでの独特な語りのスタイルは終盤で突然、変貌をとげる。「わたしたち」はどのように去っていったのか、それは永遠に知る由がない。

 本書が共訳の形なのは、ファンも多かった岩本正恵さんが訳出の途中で若くして逝去されたからだ。本作の原書を読んで魅力に引きこまれ、日本への紹介に尽力されたという。あとを引き継いだ小竹由美子さんとの見事なコラボレーションとなった。(岩本正恵、小竹由美子訳)
    −−「今週の本棚 鴻巣友季子・評 『屋根裏の仏さま』=ジュリー・オオツカ・著」、『毎日新聞』2016年04月03日(日)付。

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