覚え書:「今週の本棚・この3冊 夏目漱石 水村美苗・選」、『毎日新聞』2016年04月10日(日)付。

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今週の本棚・この3冊
夏目漱石 水村美苗・選

毎日新聞2016年4月10日 東京朝刊

 <1>坊っちゃん夏目漱石著/新潮文庫/335円)

 <2>三四郎夏目漱石著/新潮文庫/367円)

 <3>明暗(夏目漱石著/新潮文庫/810円)

 没後百年。漱石は日本近代文学のもっとも大きな礎である。それでいて漱石の後、何万作、何十万作の小説が日本語で書かれたにもかかわらず、漱石の造った世界が、後の小説家の誰彼に継承されたという印象はない。漱石の造った世界は、それほど屹立(きつりつ)しているのである。

 一つにはその強靱(きょうじん)なリアリズム。あの時代の日本というものが、巷(ちまた)の人の息吹が感じられるほど生き生きと描き出されている。二つにはその卓越したユーモア。落語と英文学を混ぜたような面白さで、痛快な自己諧謔(かいぎゃく)にも通じる。

 そして、三つにはその深い倫理性。

 最も希有(けう)なのはこの点である。実は漱石から三冊選ぶにあたってわざと避けた作品がある。『こころ』である。最後の「先生と遺書」がよく国語の教科書に使われるのは、倫理性というものを主題にしているからだが、まさにそれゆえに、「先生」の人物造形に失敗している。一貫して倫理的だった人間が、魔が差して、卑怯(ひきょう)なことを言ったりしたりすることはある。だが読者が胸に描いてきた「先生」が、かつて恋敵のKに対し、あそこまで臆面なく卑怯でありえたこと、しかもだらだらと卑怯であり続けえたことが、読んでいて少しも納得できないのである。あんな部分を高校時代に読まされたら、のちに漱石を読む気がしなくなるだろう。

 だがこのような漱石の失敗−−それが妙に気にかかるのは、漱石の文学が、倫理性というものを、常にどこかで真剣に問うているからである。それも『こころ』のように正面切ってだけではなく、登場人物の言葉の端はしや喜劇的な状況を通してでも問うている。私は谷崎潤一郎も尊敬しているが、彼を読む時には、漱石のような精神と向かい合っている気はしない。

 <1>を選んだのは、愉快なうえに、読みやすいので、いつか『こころ』の代わりに教科書に載せて欲しいからである。<2>は、やはり愉快だからである。<3>は、面白いが、愉快ではない。だが倫理的であることの可否を実に微妙な形で問うている。主人公の津田は「先生」とちがい、最初からその倫理性が疑わしい人物として登場する。彼が妻のお延(のぶ)に対して卑怯であっても納得がゆく。悪人ではないが、小人たるがゆえ、彼は小さな罪を重ね続けるのである。この未完の作品の続編『続明暗』を女の私が書こうと思ったのも、女に対して卑怯な男を少し痛い目にあわせたかったからかもしれない。
    −−「今週の本棚・この3冊 夏目漱石 水村美苗・選」、『毎日新聞』2016年04月10日(日)付。

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今週の本棚・この3冊:夏目漱石 水村美苗・選 - 毎日新聞



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