覚え書:「論点:緊急事態条項は必要か」、『毎日新聞』2016年04月29日(金)付。

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論点
緊急事態条項は必要か

毎日新聞2016年4月29日 東京朝刊

(写真キャプション)わずか8秒の間に家屋をのみ込み、押し寄せる津波宮城県名取市で2011年3月11日午後3時56分02秒、本社ヘリから手塚耕一郎撮影


 安倍政権が目指す憲法改正の出発点として浮上した「緊急事態条項」が、熊本地震で再び注目を浴びている。大規模災害や他国による武力攻撃を受けた際に、首相に権限を集中させ、国民の権利を制限する内容だ。国民の生命と安全を守る−−。その言葉は美しい。だが、緊急事態条項は本当に必要なのだろうか。

大災害対応、現行法で可能 枝野幸男民進党幹事長

枝野幸男
 緊急事態条項の問題は、公共の福祉と基本的人権をどう調整するか、という問題だ。基本的人権は公共の福祉によって制約できるが、制約の度合いは状況によって異なる。通常は容疑者の逮捕に令状が必要だが、現に犯罪が行われている時などは無令状で現行犯逮捕できる。緊急時に基本的人権の制約の度合いが大きくなることは、憲法に内在しており、緊急事態条項を条文に書く必要性は全くない。

 緊急事態条項がなくても、大規模災害の対応で困るとは思わない。首相が災害対策基本法に基づき災害緊急事態の布告を出せば、内閣は国会閉会中でも、法律に代わる政令を制定できる。これで十分だ。緊急事態条項の必要性を叫ぶ人々は、法律で対応可能なことを「憲法に書いていないからできない」と主張しているだけだ。

 官房長官として東日本大震災東京電力福島第1原発事故の対応にあたったが、憲法や法律の不備で対応に困難が生じたことは、全くなかった。当時は通常国会の開会中。新たな法律が必要なら、通常の手続きで国会に提出すれば十分だと考えた。あの当時なら、1日あれば成立できただろう。

 原発から半径20キロ圏内の住民への避難指示は、原子力災害対策特別措置法(原災法)に基づく措置だ。対応を批判されたが、それは東電などから適切な情報が入らなかったこと、現地対策本部が被災し、政府の指示を周知させるのが困難だったことによる。意思疎通の問題であり、政府に権限がないから問題が生じたわけではない。

 民間事業者である東電本店に政府高官を常駐させたのは、原災法に基づく措置。中部電力浜岡原発の停止要請は、電気事業法に基づく行政指導。いずれも相当の私権制限だが、現行法で対応した。

 これらの指示や要請に法的な強制力はない。浜岡原発の停止の場合、中部電力には政府の要請に従わない自由もあった。それでも停止したのは、事業者として自らそう判断しているわけだ。

 政府が法的にこれらを強制すべきだとは思わない。自民党憲法改正草案では、国民に政府の指示に従う義務を課すとあるが、東京が放射性物質で汚染されそうという時、住民に「パニックが起こるから逃げるな」と強制するような権限を、政府に与えていいのか。

 政府がすべきことは、説明と説得だ。東日本大震災では「自動車で逃げないで。できるだけバスを調達します」と呼びかける場面もあった。あの状況で秩序を保った避難を徹底するのは難しいが、努力するしかない。熊本地震で指摘される広域避難も同様だ。政府の仕事は住民を強制的に避難させることではない。「避難した方が安心だ」と伝え、避難所を用意し、住民に避難を勧めるよう自治体の首長を説得することだ。

 緊急事態条項の必要性を叫ぶ人々の発想は「古い護憲派」と同じだと感じる。「憲法に緊急事態条項を書けば緊急時に適切に対応できる」というのは「9条があるから平和を守れる」と同様、条文さえあればすべて実現する、という発想だ。大規模災害で国民を守るとは、そんなことではない。【聞き手・尾中香尚里】

緊急権は正当、だが違憲 橋爪大三郎社会学

橋爪大三郎
 国家緊急権とは、緊急時に政府が憲法秩序を踏み越えて、法的根拠がなくても国民のために必要な行動をする権限だ。事前に緊急時のための法律を多く制定し、こんな権限を使わなくてもすむようにするのが基本だが、想定外の事態も必ず起きる。その場合の最後の切り札が、国家緊急権だ。

 日本国憲法は、国民が自らの生命や安全を守る権利は、憲法が保障する以前の生得的な権利だ、との考えに立つ。緊急時にこうした権利と憲法や法律が両立しない場合、条文を優先して国民の生命や安全を後回しにしてはならない。

 占領下で国民の生命や安全を守ったのは、連合軍という憲法を超えた存在だ。独立後、日米安全保障条約が結ばれ、米軍が日本の緊急事態に対応する権能をもった。だから国民は国家緊急権を深く考えずにすんだが、緊急事態は戦争だけではない。国民を守る責任を「外国に丸投げ」はありえない。

 国家緊急権と憲法のちぐはぐな関係を解消する方法は二つ。一つは、憲法に緊急事態条項を設け、政府が国家緊急権を行使しても合法だと決めてしまう。もう一つはあえてそれをせず、政府が国家緊急権を行使すれば憲法違反となるようにしておく。私の考えは後者だ。なぜなら、憲法秩序に与えるダメージが少ないからだ。

 政府が国家緊急権を行使するのは、国民を守るため必要で正しいとしても憲法違反。結果がよかったとしても、責任は免れない。危機が去り次第、職を辞して、憲法に背いた罪の責任を問われるべきだ。解散・総選挙で国民の信を問えばすむ政治責任とは異なる。

 自民党改憲草案が適切ではないのは、緊急事態条項があると、国家緊急権を行使しても合法になり、責任を追及しにくくなるためだ。緊急事態条項の規定がなければ、政府の憲法違反は明らか。国民は、どうにかして憲法秩序を回復しなければならない。現憲法は、行政府を監督する国会の国政調査権を定めている。国会が事実関係を強制力をもって検証し、憲法上の責任と政治責任を明らかにし、必要なら刑事責任を告発する任にあたるべきだろう。

 安倍政権は、憲法改正を自己目的化している節がある。改憲で歴史に名を残したい、功名心かもしれない。だが、改憲案の発議も国民投票過半数もハードルは高く、失敗は政権の致命傷になる。そこで大規模災害を背景に、野党の協力が得やすいとみた緊急事態条項を改憲の目玉にしたのではないか。緊急事態にも、憲法にも国民にも、失礼な話である。

 熊本地震は、被害が局所的で、ライフラインも行政組織も対応できている。東日本大震災クラスでも、法律の範囲で対応できた。真の緊急事態は、これをはるかに上回る、想像もできない事態のこと。この可能性を政治が議論すること自体は正しい。

 大事なのは、政治家も国民も、国家緊急権という選択肢を十分意識したうえでそれを封印し、通常の法秩序のなかで歯を食いしばって耐え抜くことだ。それは、「憲法を守る」という覚悟を、逆の方向から照らし出す尊い行為である。【聞き手・冠木雅夫】

三権分立の例外の根拠 礒崎陽輔自民党憲法改正推進本部副本部長

礒崎陽輔
 世界を見渡せば、ほとんどの国の憲法に緊急事態条項がある。1980年代以降に制定された憲法にはすべて、緊急事態条項が入っていると説く学者もいる。

 日本国憲法三権分立を定めているなか、緊急事態では避難などの措置の迅速化を図るため、立法権を一時的、部分的に行政権に移譲することが求められる。つまり三権分立の枠組みの例外を設けることになるので、憲法に根拠が必要だ。いうなれば緊急事態条項は立憲主義を守るために存する。

 自民党は2012年、憲法改正草案を公表し、緊急事態条項を盛り込んだ。党憲法改正推進本部で必要論が高まり、私が小委員会でまとめたものだ。ここ1年ぐらいの衆議院参議院憲法審査会の議論で、他党が理解あるいは理解とはいかないまでも興味を示した項目なので、憲法改正の項目の一つとして有力だろうと思う。

 自民党憲法改正草案の緊急事態条項では、緊急事態の宣言を発令した時は、地方自治体の長へ必要な指示を出せるようにしている。国民の生命、身体、財産を守る措置を行うため必要な時には、国民にも指示ができるようにしている。また、国会議員の任期延長と衆院解散の制限についても明文化している。

 戦後の憲法は武力攻撃事態を想定していない。内閣参事官当時、有事法制の担当をして、国民保護法(04年成立)を起案した。国民保護法では武力攻撃事態において、首相を本部長とする対策本部を置き、警報を発令、避難が必要な地域や救援を都道府県知事に指示できるようになった。一方で、国民の協力については「自発的意思にゆだねられる」と努力規定にとどめられた。緊急時に国家が国民を守るという意味では、課題が残った。なぜかといえば、憲法との絡みだ。やはり、有事を想定する国民保護法のような緊急事態法に関しては、憲法上の根拠付けをしていくべきだと思う。

 問題はまだある。東日本大震災の時、11年4月に予定されていた統一地方選を特例法で延期した。地震のすぐ後に、選挙は事実上不可能だった。ただ、地方議員の任期は地方自治法などに規定されている。法律で規定しているので、特例法で例外を定めて延期できた。もし国会議員の選挙だったら、そうはいかなかった。国会議員の任期は憲法に規定されており、任期を延ばすには、憲法に例外事項を規定しないとできない。

 いま、自民党憲法改正の具体的項目として、何を選択するかを決めているわけではない。憲法改正は衆参両院それぞれで3分の2の合意がないと発議できないからだ。改正内容は、他党の意見を聞いて、できるだけ国民の広範な支持を得られるものにすべきだ。

 しかし、国家の崇高で重い役割の一つは、国民の生命、身体、財産を守ることにある。小さな人権が侵害されることはあるかもしれないが、国民を守れなければ、立憲主義も何もない。そのためには、平時の憲法の例外規定を置き、緊急事態が起きようとも立憲主義を守る決意が重要だと思う。【聞き手・南恵太】

熊本地震で注目
 緊急事態条項は自民党が2012年に発表した改憲草案に盛り込まれた。大規模災害時などに首相が緊急事態を宣言すれば、内閣は法律と同じ効力を持つ政令を制定でき、国民には政府の指示に従うことを求められる。菅義偉官房長官は15日の記者会見で、熊本地震に関連し「大規模災害の発生のような緊急時に、国民の安全を守るために国家や国民がどのような役割を果たすべきかを、憲法にどう位置づけるかは極めて重く大切な課題」と述べた。

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 ■人物略歴

えだの・ゆきお
 1964年栃木県生まれ。東北大卒。弁護士を経て93年衆院議員に初当選、当選8回。官房長官として東日本大震災の対応にあたったほか、経済産業相などを歴任。旧民主党憲法総合調査会長を務めた。

 ■人物略歴

はしづめ・だいさぶろう
 1948年生まれ。東京大大学院社会学研究科博士課程単位取得退学。東京工業大名誉教授。宗教学や近代思想史など幅広い分野を研究する。著書に「国家緊急権」「日本逆植民地計画」など。

 ■人物略歴

いそざき・ようすけ
 1957年生まれ。東京大法学部卒。旧自治省を経て2007年参院議員に初当選し、現在2期目。首相補佐官として、安倍晋三首相を支えた。現在は参院行政監視委員長。
    −−「論点:緊急事態条項は必要か」、『毎日新聞』2016年04月29日(金)付。

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