覚え書:「高橋源一郎の『歩きながら、考える』:沖縄が声一つに、求め続けた憲法」、『朝日新聞』2016年05月14日(土)付。

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高橋源一郎の「歩きながら、考える」:沖縄が声一つに、求め続けた憲法
2016年5月14日

米軍の新しい飛行場建設が計画される沖縄・辺野古の周辺を歩く。重低音を響かせて、頭上にヘリコプターが飛来した=沖縄県名護市

 3月まで「論壇時評」を連載していた作家の高橋源一郎さんが、憲法記念日に合わせて沖縄県を訪れました。米軍基地と向き合ってきた人々の歴史、日本国憲法の意味を問う市民の声。沖縄で憲法を考える旅から見えたものは……。寄稿をお届けします。

 天気予報ははずれて、抜けるような青空が広がっていた。

 憲法集会に出席した翌日、世界遺産にもなった、古琉球のグスク(城)の遺跡の一つ、勝連城跡に登った。13世紀前後に作られた城の壁は、優雅な曲面を描き、目にしみるほど赤い花に彩られたその姿は、どこか異国の建物を思わせて、息を呑(の)むほど美しかった。

 城の頂上に登ると、遙(はる)か遠くまで海が見えた。太古の時代、その海を通り「やまと」まで北上していった人たちがいたのだろうか。

 柳田国男は晩年、日本人の祖先は、遠い南方から、沖縄の島づたいにやって来たのではないかと書いた。その中で、島に残った人たちは、そこで生き、やがて日本本土とは異なる歴史と文化を持つ一つの王国を作り上げた……その仮説は、いまも不思議な魅力をたたえて存在している。

 わたしが出席したのは、毎年、憲法記念日に開かれる大きな集会だった。その中で、一場の寸劇が演じられた。途中、役者たちは、日本国憲法について論じ合う。

 「『憲法第43条 両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する』。けれども、憲法制定を議論した国会に沖縄の代表はいなかった。米軍の統治下にあった沖縄は、議員を送ることができなかったからだ」

 あるいは、こういうことばも。

 「もし、日本が憲法9条を捨てるなら、沖縄はその9条を掲げて独立したほうがいい!」

 こんなセリフが役者の口から出るたびに、場内から、大きな拍手や口笛が、あるいは、ためらいがちな拍手が起きた。

 沖縄について考えるとき、たとえば、基地問題は保守と革新で対立しているのだ、というように思われがちだ。

 だが、実際には、保守が基地依存派で革新は基地反対派、と単純に分類することはできない。そして、ときに、政治的な立場を超えて、沖縄は一つの声になろうとする。

 2007年、沖縄戦における「集団自決の強制」という記述が、高等学校歴史教科書から、「日本軍の命令があったか明らかではない」として削除・修正させられた。この検定結果を撤回するよう求める決議は、沖縄のすべての市町村で可決された。

 あるいは、沖縄の本土「復帰」を目指した「沖縄県祖国復帰協議会」にも、初期には、保守的な性格の団体も加わっていた。

 当時の記録を読むと、敗戦で日本から切り離された彼らが共に目指したのは、なにより、本土に「復帰」し、日本国憲法が自分たちにも適用されること、そのことで、奪われていた平和と人権を獲得することだったことがわかる。沖縄の人たちが、党派を超えて戻ろうと願ったのは、単なる祖国日本ではなく、「日本国憲法のある日本」だったのだ。

 1972年の本土復帰の数年前、突然、うるま市の昆布という地域の土地を接収する、と米軍が通告した。数年にわたる反対闘争が起こり、やがて米軍は土地の使用を諦めた。当時まだ二十歳(はたち)そこそこだったある女性は、忘れられないこんな光景を話してくれた。

 あるとき、アメリカ兵たちが行軍してきて、反対派の小屋に向かって、石を投げ始めたのだ。その頃、沖縄は「ベトナム戦争」への米軍の出撃拠点だった。まるで、その「戦争」が、直接、持ちこまれたかのようだった。

     *

 いま、米軍の普天間飛行場辺野古移設をめぐって、大がかりな反対運動が起こっている。辺野古のゲート前で座りこみを続けるある男性は、こんなことをいった。

 「米軍は表には出てきません。わたしたちが反対のために座りこむと、機動隊が排除のために出てきます。当初は沖縄県警の機動隊でした。最近では、東京の警視庁から来た機動隊がその役目を担っています」

 なにより印象的なのは、東京から来た機動隊は、ときに「笑いながら」、反対派を排除してゆくことだ、と男性はわたしに呟(つぶや)いた。それは沖縄の機動隊員には見られない表情だった。

 「アメリカ」の代わりに、自分たちの前に立ちはだかる「日本」。その「日本」は、戻りたいと切望した「日本国憲法のある日本」なのだろうか。

 鶴見俊輔アメリカに留学中、日本とアメリカの間で戦争が始まった。鶴見は、敵性外国人として捕虜収容所に入れられていたが、そこで、日本に戻るか、と問われ、「戻る」と答えた。鶴見は、戦争を遂行しようとしている祖国日本に反対していた。それでも戻ろうとした理由について、こう書いている。

 「日本語……を生まれてから使い、仲間と会ってきた。同じ土地、同じ風景の中で暮らしてきた家族、友だち。それが『くに』で、今、戦争をしている政府に私が反対であろうとも、その『くに』が自分のもとであることにかわりはない。法律上その国籍をもっているからといって、どうして……国家の権力の言うままに人を殺さなくてはならないのか。……この国家は正しくもないし、かならず負ける。負けは『くに』を踏みにじる。そのときに『くに』とともに自分も負ける側にいたい、と思った」

 鶴見は、「国(家)」と「くに」をわける自分のこの考えは、なかなか理解されにくいだろうと書いている。鶴見が戻った戦争中も、そして、現在でもなお。

 だが、沖縄にいると、鶴見の、そのことばが、わかるような気がする。

 沖縄の人たちが守ろうとしてきたのは、そこで生きてきた、自分たちの土地、そこで紡がれてきた文化だろう。それは、彼らにとって「くに」と呼ぶべきものなのかもしれない。けれど、彼らが「くに」を守ろうと立ち上がると、その前に立ちはだかるのは、「アメリカ」という「国」、そして、彼らを守るべきはずの「日本」という「国」だったのだ。

 沖縄で見せる、この「国」の冷たい顔は、わたしたちに、「国」とは何か、ということを突きつけているように思えるのである。

 ベトナム戦争が続いていた60年代半ば、合衆国憲法で保障されているはずの黒人の権利、とりわけ参政権を求めて戦っていたアメリ公民権運動の活動家、フェザーストーンは日本中を講演して回った。アメリカ軍政下にあった沖縄にも渡った。旅の感想を訊(き)かれた彼は、簡潔にこう答えた。

 「日本は、沖縄と沖縄以外の部分と、その二つにわかれている。それだけだ」

 彼は、遠い異国を歩き、考えたのだ。アメリカの黒人たちと同じように、抑圧される人たちがここにいる、と。それから半世紀、いま生きて、彼が沖縄を再訪したなら、どんな感想を抱くだろう。

     ◇

 「沖縄が日本の一部でなかった時代も想像したい」という高橋さんの発案で訪ねた古城。この地は誰のものか、考えさせられました。シリーズ「歩きながら、考える」(随時掲載)は、高橋さんが現場を訪ねつつ時代を考察する寄稿企画です。(編集委員塩倉裕
    −−「高橋源一郎の『歩きながら、考える』:沖縄が声一つに、求め続けた憲法」、『朝日新聞』2016年05月14日(土)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12355861.html


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