覚え書:「ストーリー 3人の日本人ムスリム」、『毎日新聞』2016年05月15日(日)付。

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ストーリー
3人の日本人ムスリム(その1) 細い糸を太い綱に

毎日新聞2016年5月15日 東京朝刊

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 東京・五反田の住宅街に4月中旬、「日本イスラーム文化交流会館」ができた。白い外観の4階建てビルで、日本人のムスリムイスラム教徒)を中心に約500人の会員がいる「日本ムスリム協会」の新たな活動拠点だ。1952年に設立された同会は宗教法人とはいえ、親睦団体の側面が強い。会館は事務室や礼拝室、キッチン付きのサロンなどを備え、会員以外の利用も歓迎する。

 完成を心待ちにしていたのが、協会の活動を担ってきた3人の70代男性だ。10代目会長の徳増公明(きみあき)さん(73)、前会長の樋口美作(みまさか)さん(79)、事務局長の新井卓夫さん(74)。「エジプトやインドネシアの人たちがここで料理教室をやりたい、と手を挙げてくれているんです。ムスリムだけじゃなく、誰でも来てもらえる場所にしたい」。会館1階にあるサロンを見渡して徳増さんは夢を語った。そして、6月6日から始まる今年のラマダン(断食月)で、日没とともに始まるにぎやかな夕食を、ここで共にする日を思い浮かべた。

 3人の出会いは50年以上前の学生時代にさかのぼる。65年、大学でアラビア語を学んでいた3人はエジプト政府の招きにより、首都カイロにあるイスラムスンニ派の最高学府「アズハル大学」に留学した。渡航費も食事の心配も不要だが、留学の条件は「イスラム教に入信すること」。それぞれの思いからムスリムになった3人は、4−11年の留学を終えた後も信仰を守り続け、高度経済成長の中で、資源国の中東と日本をつなぐビジネスの最前線に立ってきた。

 留学から半世紀を経て世界はより短時間で結ばれたが、同様に相互理解も深まったのか。「今の日本では、イスラム教の教えを正面から伝えても理解されないことが多い」。樋口さんが残念そうにつぶやいた。数少ない日本人ムスリムとして3人がたどった足跡と、日本とイスラム教の国々を結ぶ細い糸を太い綱にしようと活動する姿を追った。<取材・文 久野華代>
    −−「ストーリー 3人の日本人ムスリム(その1) 細い糸を太い綱に」、『毎日新聞』2016年05月15日(日)付。

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ストーリー:3人の日本人ムスリム(その1) 細い糸を太い綱に - 毎日新聞

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ストーリー
3人の日本人ムスリム(その2止) 遠い地の教えと共に

毎日新聞2016年5月15日 東京朝刊


(右)、徳増公明さん(右から2人目)=東京都品川区で



 ◆日本人ムスリム3人の半世紀

導かれた友との絆
 「この後は会議があるから、今やっちゃおうか?」「そうだな」

 4月上旬の午後3時過ぎ。日本イスラーム文化交流会館(東京都品川区)の開館準備に集まった新井卓夫さん(74)、樋口美作(みまさか)さん(79)、徳増公明(きみあき)さん(73)の3人は気楽な会話を皮切りに礼拝を始めた。

 1日5回、決められた時間にお祈りをすることはムスリムの重要な務めだが、日本に住むムスリムの多くは、それぞれの職場や生活環境に応じて礼拝の時間を確保しているという。「事情に合わせて時間帯を変えたり、回数を減らしたりしても構わない」と新井さんは説明する。

 会館の3階にある礼拝室は分厚い緑色のじゅうたんが敷かれ、壁にアッラーアラビア語で神)とイスラム教の開祖ムハンマドらの名が掲げられている。トルコ人女性がデザインしたという内装は、イスタンブールのモスク(イスラム教の礼拝施設)にいるような気分になる。

 3人は専用の洗い場で手足を清め、髪と服装を整えた。9000キロ西のサウジアラビアにある「カーバ神殿」の方角を向いて直立し、静かに膝を折る。「アッラーフ アクバル」(神は偉大なり)と唱えながら額を床につけ、立ち上がる動作を繰り返す。時には1人で、時には大勢で50年以上、礼拝を続けてきた。

 エジプトへの渡航費はもちろん、奨学金も出る。食事の心配も不要。ただし、留学の条件はムスリムになること−−。1962年、拓殖大でエジプトの公用語アラビア語を学んでいた新井さんは、指導教員が持ちかけた「アズハル大学」への留学話に飛びついた。「エジプトへ渡れるなら入信してもいい。先生たちの故郷を見てみたい」


1965年にエジプトのアズハル大学に留学した日本人たち。後列左から2人目が新井さん、その右が徳増さん。前列右端が樋口さん。同大の教師は日本人留学生のために特別授業を開き、アラビア語を指導してくれたという=新井さん提供

アブダビ石油」の社員としてアブダビ首長国に駐在していた新井さん(右から2人目)は、アラブ首長国連邦のザイド大統領(左)の通訳を務めるなど、中東に進出した日本企業と現地をつなぐ役割を果たした=新井さん提供
 1ドル=360円の時代。海外旅行は高根の花で、小田実の世界旅行記「何でも見てやろう」がベストセラーになっていた頃だ。一般の学生には海外留学など夢に近い。新井さんはイスラム教が何を説いているのか深く考えたことはなかったというが、好奇心に満ちた20歳の心に迷いはなかった。

 それとは対照的に、一緒に留学した樋口さんは「留学目的で入信することに後ろめたさがあった」と振り返る。早稲田大法学部の研究員をしながら拓殖大アラビア語夜間講座に通っていた。「当時、イスラム教は回教とかマホメット教とか呼ばれ、一夫多妻制などのイメージから『遅れた地域の野蛮な宗教』という偏見を多くの人が持っていた。そのような宗教を一生背負っていくのかと思うと、苦渋の入信でした」と打ち明ける。

 ただ、早大の指導教授が大学を去って研究室がなくなり、留学以外に針路を見いだせない状況でもあった。留学目的の入信がイスラム教への「裏切り」ではないかという感情にも責め立てられながら、片道602ドル10セントの航空運賃を出してもらい、カイロへの飛行機に乗った。

 私も学生時代にイスラム教国のイランに留学した経験があり、新井さんの「海の向こうで暮らしたかった」という気持ちに共感した。ただ、私が行った頃は航空券もビザも難なく手に入ったし、米ドルを持ち込めば生活に困らなかった。イスラム教への入信を求められたら、留学をためらったかもしれない。

 65年3月、新井さんたちの留学生活が始まった。ナセル大統領(当時)の主導で、カイロの「留学生村」には4階建ての学生寮40棟の他に食堂やモスク、病院などが整備され、約70カ国から3000人以上の学生が集まっていた。

 「エジプト人は時間には遅れる、順番は守らない、貧富の差もあって、がっかりした。『何だこれは。社会秩序というものがないじゃないか、こんなところでやれるか』という気持ちだった」と樋口さんが振り返れば、海外生活にあこがれていた新井さんも、市中心部へ向かう通りに清潔感がなく、他人の物をすぐに欲しがる人々に閉口したという。

 ところが、留学生活を通じて、印象はまるで異なってきた。各国から来ている留学生はイスラム教徒としての同胞意識が強く、とくに「極東から来たムスリム」の面倒を親身になってみてくれたという。生活習慣から事務手続きまで右も左も分からない樋口さんは、パレスチナの友人に何でも相談した。

 「『友の痛みは自分の痛み』というイスラム教の教えが彼らの中にあるからでしょう。シリア人のファオジー君はつきっきりでアラビア語を指導してくれました。自分も『正直に、誠実に、忍耐強く』というイスラムの教えを大切にして生きていこうと思いました」と樋口さんは言う。

 一方、当時の日本は高度成長期の真っただ中。「石炭から石油」へのエネルギー転換が進み、産油国との結びつきを強めることは最重要の課題となっていた。アラビア語に堪能な「極東のムスリム」たちはやがて、即戦力としてビジネスの最前線に立つことになる。

 樋口さんは留学中にカイロの日本航空でアルバイトを始め、帰国後の71年に正社員に採用された。73年のオイルショックで、国内企業が原油確保の必要性などから産油国への進出を加速させると、イラクの首都バグダッドで新規路線開設を担った。また、新井さんはアブダビ首長国の海底油田掘削に成功した日本の石油会社「アブダビ石油」に入社。直ちに現地へ派遣され、視察に訪れた大統領の通訳から技術者の送り迎えまで何でもこなした。「忙しければ忙しいほど日本の成長と一緒に走っている実感があった。自分たちの時代が来たと感じました」と話す。

 ただ、ムスリムであることは有利でもあり、不便でもあった。樋口さんは中東の旅行代理店や税関の職員から「同じムスリム」として信頼を得られた一方、日本では金曜日にモスクで礼拝をするのが難しく、「イスラム教をやめよう」という思いが何度も頭をかすめたという。同僚から「あいつはイスラムだから駄目だ」と言われないように懸命に働き、仕事の宴席では、戒律で禁じられた酒を仕方なく口にしたこともある。

 制約の多いムスリムの生活を、なぜ帰国後も続けたのだろう。こっそり信仰と距離を置いてもよかったのではないか。私のそんな疑問に、樋口さんは「裏切れないですよ。彼らを」と答えた。

 思い出すのはカイロの学生寮でパジャマ姿で食堂に並び、ともに礼拝した友人たちだ。困った時はいつでも助けてくれた仲間。後に地元銀行の支店長になって再会できた人もいれば、シリアのファオジー君のように連絡が取れなくなった人もいる。出会った仲間との絆が信仰心を支えている。「その仲間も、神が導いてくれたおかげです」と樋口さんは言った。

描く「偏見から理解へ」
 世界のエネルギー供給基地として存在感を強めた中東地域だが、経済のグローバル化は地域内の国や民族の対立とも絡みながら西欧社会との摩擦も生んだ。新井さんらと共に拓殖大から留学した徳増さんも、その流れに無縁ではなかった。

 アズハル大を卒業後、徳増さんは日本の石油会社「アラビア石油」に就職し、サウジアラビアのリヤド事務所で働いた。休暇をとって家族と東京で過ごした帰路、クウェートに立ち寄った90年8月2日の朝だった。石油増産政策の対立からイラクが突然クウェートに侵攻し、国境も空港も閉鎖されてしまった。

 徳増さんは在留邦人約300人と日本大使館に避難。約3週間を過ごした後、ヨルダンに脱出するための経由地としてバグダッド空港に到着すると、待ち構えていたイラクの当局者に告げられた。「皆さんは大統領のゲストです」。100日以上続く人質生活の始まりだった。

 バグダッド市内のマンスール・メリア・ホテルに移送された人質はグループに分けられ、各地の重要施設へ移された。徳増さんら4人は厚手のカーテンで窓を覆った小型バスに乗せられ、建設工事の宿舎と思われる場所に連れて行かれた。隣接する工場から化学薬品の臭いが漂ってきたという。パスポートを没収され、武装した兵士に常時監視される中、外界との唯一のつながりはラジオだった。電池を節約するため、徳増さんらはこまめに電源を切り、欧米の人質と共用した。

 軍事基地や石油施設、政府官庁などに「人間の盾」として人質を分散収容し、爆撃に備えたフセイン大統領(当時)は世界から厳しい非難を浴びた。「私たちは『ゲスト』だから3食出たし、手荒な扱いも受けなかったが、逃げれば死ぬな、とは思った」と徳増さんは言う。お祈りをしたり、日記を書いたりして過ごしていたある日、徳増さんは監視のイラク人に物陰でささやかれた。「本当に悪いな。でも仕方ないんだ」。同じムスリムだからといって優遇された記憶はないが、この時ばかりは、同胞意識から本音を明かしてくれたのかもしれないと感じた。

 クウェート侵攻から4カ月、事態は急展開する。12月1日に人質の妻ら46人がアントニオ猪木参院議員とともにバグダッドに到着した。徳増さんも妻に会えたが、「人質解放」の知らせは来ない。妻たちは帰国予定日の同4日、行動を起こした。フセイン大統領に宛てて手紙を送ることにしたのだ。「私たちは夫を残して日本に帰るわけにはいきません。閣下も一人の親として、夫として、私たち家族の気持ちを理解してくれるでしょう」。実は、この手紙は徳増さんが「大統領の心を揺さぶる言葉」を選び、アラビア語で代筆したものだった。人質36人の妻が署名してイラクの当局者に手渡した。

 その翌日、人質は黒塗りのベンツに乗せられ、「イラク・オリンピック委員会」の建物に集められた。現れたのはフセイン大統領の長男ウダイ氏。一人一人と握手して妻たちに告げた。「あなたたちは、もう今から、いつでも夫を連れて日本に帰ることができます」。あの手紙がどれほど奏功したのかは知るよしもないが、徳増さんが妻と一緒に戻ったホテルからは監視人の姿が消えていた。


樋口さんはエジプト留学中に出場した水泳大会で得たメダルを今も肌身離さず持っている
 その後、米英主導軍によってバグダッドは陥落し、イラクに新政権が生まれた。その間にも、2001年9月の米同時多発テロなど悲劇は相次ぎ、西欧社会を標的にしたイスラム過激派のテロは続く。イスラム教徒の一時入国禁止を唱えた米大統領選の候補が高い支持を集めるなど、対立は先鋭化している。

 日本ムスリム協会にも米同時多発テロ以降、偏見や誤解を含んだ厳しいまなざしが向けられるようになったという。海外でムスリムの関わるテロが起きるたび、脅迫めいた電話がかかってくる。8月に正式オープンする日本イスラーム文化交流会館の外壁に、アラビア語でモスクを意味する「マスジド」の看板も掲げる案が出たが、悪質な嫌がらせを受けることを懸念して断念したという。

 ムスリムとして半世紀を生きてきた3人の目に、テロ首謀者らの原理主義や過激思想はどう映るのだろう。新井さんは「ムスリムは信仰にだけ生きていれば称賛されるわけではないんです。自分の生活と信仰の折り合いを付けることを重視する。宗教上の義務でも、事情があってできないことは妥協して、後で償いの行いをすればいいのです」と言い、イスラム教の良さは、過激派のイメージとは正反対の「おおらかさ」と強調する。

 50年前の日本のムスリム人口は在留外国人を入れても2000人程度だった。今は日本人だけでも1万人いるとされるが、決して多数とはいえない。ムスリムが少数派の日本でも、他者と対立せずに信仰を守って生きられることは、自分たちが実証している。「『ムスリムにならなければ良かった』と後悔したことは、一度もありません」と語る新井さんに気負いは感じられなかった。

 そして、3人が目指すのは「無実の人を殺害することは大きな罪になる」と説くコーランの教えを繰り返すだけでなく、イスラム圏の文化に対する理解を徐々に深めてもらうことだ。中東でのモスクは、日々の祈りの場であると同時に、地域の「公民館」のような存在でもある。東京の文化交流会館をムスリム以外にも開放し、イスラム各国の料理や音楽、語学を学べる講座を開く計画を練っている。

 「大切なのは、コーランにあるようによく働き、他人に親切にすること。一人一人のムスリムの善い行いによって、語らずともやがて社会で肯定的に受け止められていく」と樋口さん。3人は悲観していない。他者を思いやり、かつて「希少なムスリム」として自分たちも日本の経済成長を担えたように、少数派がいてこそ輝く社会に近づけるよう、静かに願っている。

 ◆今回のストーリーの取材は

久野華代(くの・はなよ)(東京科学環境部)
 2006年入社、北海道報道部などを経て15年から現職。医療や地震・火山報道などに携わり、今年度は環境問題を担当する。著書に「B型肝炎 なぜここまで拡がったのか」(岩波ブックレット、共著)。写真は写真映像報道センターの丸山博が担当した。

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    −−「ストーリー (その2止) 遠い地の教えと共に」、『毎日新聞』2016年05月15日(日)付。

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