日記:仏法原理主義者と揶揄されるキリスト教神学者が池田大作『立正安国論講義』(聖教新聞社、昭和43年)を読む。(1)

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私自身は、超越即内在という立場になりますので、ある意味では「原理主義」とはほど遠いわけですが……原理主義の由来に関しても合衆国の聖書逐語霊感派に対する揶揄が語源ですから、それをはき違えた「バカ」は相手にしませんが……最近「仏教原理主義者」などと批判されますから、原理にちょっと乗ってみようとおもいまして、池田大作立正安国論講義』(聖教新聞社、昭和43年)を最近、チマチマと読みなおしております。

いつまで続くかわかりませんが、時間のある時に更新していこうと思います。

先に言及しておきますと、。御存知の通り、1)政教分離前…ただ政教分離批判に関してもこれも原理的に考えれば批判ではなく揶揄だったのがその事実ですがここでは置いておきます…なのでレトリックとしての「王仏冥合」、2)宗門問題以前なので、法主への表面上ですねこれ、賞賛…ただこれは仏法民主主義という言葉出てくるのでまさにこれもレトリック…という「限界」がありますが、これは「限界」とは決して異なる「制約」にほかなりません。戦時下ジャーナリズムに目を転じてみればその消息がよく理解できますが、レトリックでコンテクスト自体が全否定されるべきものではないのが、この講義の持っている現代性にほかならないでしょう。

否、今こそ読みなおしてしかるべき一冊ではないか思うのが、率直な読後感です。

即ち原理に徹底していけばいくほど、なし崩しの現実容認とは程遠い超越即内在、普遍即個別になっているとお話でございました。

言説には「わかりやすさ」という指導性の問題をも内包されておりますが、近頃流行りの「わかりやすさ」とは一線を引かれているので、……これもレトリックの装置として……、そこはさすがとしか形容のしようがありません。


さて鎌倉時代日蓮の時代の「立正安国」という発想は、時代的限界があるのではなく、現代政治において政治に参加するものに最も求められている発想ではないか、ということが池田名誉会長の一貫したテーマです。叙述に従えば、(当時の)冷戦時代の世界対立、国内での政治対決という二つのイデオロギー対立に、民衆が置き去りにされ、平和(=具体的には生命の尊厳、ですが、それを確立する政治)をどのように導いていくのか、ということが日蓮との対話で思索された講義となっております。



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序 三頁
……日蓮大聖人の仏法は、ある一時期にだけ通用したり、一民族や一国家にのみとどまるような偏狭な教えでは断じてない。未来永劫にわたり、民族を越え、国境を越えて、全世界に燦然と輝きわたるとの御教示である。しかして、先ず、日本の王仏冥合を達成することが、世界平和への最直道であることも明白である。
 日蓮大聖人の正統の教えを信奉する、我が日蓮正宗創価学会の活動は、一貫してこの立正安国の方程式を大精神とし、かつ未来への根本指標とすることもいうまでもない。

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いわくつきの……しかし本来的には曰くではないのですが……「王仏冥合」とのキーワードが随所で出てきますが、後に徹底的に批判された国立戒壇建立とは必ずしもワンセットにはなっておりません。これは序に限定される問題ではなく全編に渡る取り扱いですから注目してしかるべきという話であることも念のため。
むしろ、現世を警世の預言者的立場(=ヴェーバー)で創造的に批判することで、活性化を促していく宗教の善性に注目するならば、王仏冥合は、公明党支援に限定されるものではなく、創価学会員のあらゆる「活動」が、刺激を与えていく「地の塩」として王仏冥合と読むこともできるという意味で、この講義は否定されるものではなく、ある意味で新鮮という他ありません。

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序 三−四頁。
 ひるがえって、世界の現況をみるに、そこには阿鼻叫喚の姿がある。米中の対立は、かつてないほど深刻であり、米中戦争、ひいては恐るべき核戦争の危機は日に日に増大し、人類はいい知れぬ恐怖と不安と動揺とを与えている。なかんずくその対立の犠牲者たるベトナム等のアジアの民衆の不安な姿は、筆舌に尽くせるものではない。
 一歩振り返ってみたとき、この日本の国土にも、あのベトナムの悲劇が起こらぬと誰人が断言できようか。
 されば、日蓮大聖人が、当時の三災七難を御覧になり、一国の諌暁にふみきられたと同じく、現代世界の危機迫る現状を見て、今こそ日本、更に世界の国諌、即世界広布の必然性を強く、痛感するのである。

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こうした言葉に接するならば、近年はやりの隣国との敵対意識を煽り、平和安全法制をバンザイする一国安堵論ほど唾棄すべき展望ということが、立正安国論から読み解くことが可能ではないでしょうか。そもそも、侵略を伝えた蒙古の使節を打ち首にした鎌倉幕府を最も唾棄したのが日蓮という話であもあります。


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序 六頁。
 およそ、宗教のための宗教−−これ何と、利己主義の思想であろうか。また非科学的な宗教であろうか。これ何と無知盲目の、一時的宗教であろうか。
 今我等が保つ色心不二の大仏法は、あらゆる人々を根柢的に幸福にしきる大宗教であり、かつ旧来の唯物、唯心思想をより高い次元から指導し、統一しうる大理念である。また、この大生命哲学を基盤とする絶対平和思想、仏法民主主義人間性社会主義、さらに中道主義、世界民族主義等のすぐれた理念こそ、今後の日本、世界をリードしていくべき、新時代の大革命原理であると主張してやまない。

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人口に膾炙してやまない「宗教のための宗教」批判は古くからあります。かつて公明党は「人間性社会主義」を標榜し、革新勢力として権力に諌暁する立場でありましたが、仏法は分断智を取らず包摂の立場……包摂(カール・ラーナー的立場)にも問題はあるのですがひとまず横に置きます……で唯物、唯心論を見ていることには注目すべきではないでしょうか。これは池田名誉会長に一貫した立場ですが、ここからは特定の宗教団体による反共キャンペーンは導くことは不可能でしょう。。仏法民主主義今いずこというのが……情けなくもなってしまいます。





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