覚え書:「平和、新憲法とともに 「国民学校一年生の会」特別な思い」、『朝日新聞』2016年08月13日(土)付。

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平和、新憲法とともに 「国民学校一年生の会」特別な思い
2016年8月13日

戦時中の1944年、山田玲子さんが己斐国民学校4年生の時の集合写真=山田玲子さん提供
 
 戦時下の「国民学校」に最初に入学した人たちでつくる「国民学校一年生の会」という集まりがある。会員の世代は、戦後に新制中学1期生となり、新憲法を学んだ。戦争から平和へ、統制から自由へ。その移り変わりを肌で感じてきた会員たちは、平和や憲法に特別な思いを抱く。

 ■戦後の笑顔写真

 今月6日、広島市西区の己斐(こい)小学校(旧己斐国民学校)。東京都豊島区の山田玲子さん(82)は、母校で開かれた原爆犠牲者の慰霊祭に参列した。

 原爆が落とされた1945年8月6日は登校日だった。当時5年生だった山田さんたちが手旗信号の訓練を終えて木陰で休んでいた時、「目がくらむ光が走った」。学校に負傷者が次々と運ばれてくる。亡くなった人は校庭で焼かれた。その数は2千人を超した。

 山田さんは2枚の学級写真を保管している。戦中の1枚は全員「気をつけ」の姿勢で表情は硬い。もう1枚は敗戦直後の秋の撮影。子どもたちは笑顔だ。「先生が『みんな笑って』と。戦争が終わるって、こういうことなんですね」

 山田さんが入る「国民学校一年生の会」(会員約400人)は、34年度生まれの人を中心に99年に発足した。国会に憲法調査会を置くことが決まり、改憲論議が具体化してきた頃だった。新憲法とともに平和の時代が来たことを知る世代でつくる同会は、活動方針に「平和憲法の初心に生きる」と掲げる。

 ■挿絵の記憶今も

 憲法は会員らが新制中学に進んだ47年の5月に施行された。「爆弾などが電車や自動車に姿を変えていく絵が忘れられない」。川崎市の中島邦雄さん(81)は、中1の時に配られた教材「あたらしい憲法のはなし」で見た「戦争放棄」の挿絵を鮮明に覚えている。

 45年3月の東京大空襲で両親ら家族5人を亡くした。当時は浅草の千束国民学校の4年生。戦後、親戚に引き取られた。アルバイトをしながら高校を出て、裁判所の速記官に。退職後は趣味を生かし、憲法や戦争を題材にした落語を演じている。戦時中に空腹だった話などに笑いの要素を盛り込み、戦争の悲惨さを伝えていきたいという。

 ■訴えこれからも

 護憲運動に取り組んできた兵庫県宝塚市の西沢慎(つとむ)さん(82)は最近、街頭でビラ配りをしていると、「外国が攻めてきた時、憲法9条で守れるのか」と批判されることが増えたと感じる。「戦争を知る世代が減り、武力より話し合いを重視する訴えが届きにくくなった」

 中国の東北部、旧満州の開拓団で終戦を迎えた。在満国民学校に通い、教育勅語をそらんじる軍国少年だった。終戦と聞いた時は「戦争に勝った」と思ったという。「学校やラジオの『日本は強い』という説明を信じていた」

 ソ連軍の侵攻で開拓団は避難を始めた。だが日本軍の主力は先に撤退を進めていた。襲撃、寒さ、飢え。1年後に日本に戻った時、約750人の開拓団は半分以下になっていた。

 最近の安全保障法制や改憲をめぐる動きに危うさを感じている。「軍隊で本当に国民を守れるのか。国はうそをつかないのか」。一年生の会は会員の高齢化でこの秋に解散する予定だが、護憲を訴える活動は続けようと思っている。(西本秀)

 

 ◆キーワード

 <国民学校学制改革> 1941年の国民学校令で尋常小学校(6年制)と高等小学校(2年制)が国民学校の初等科と高等科に改組され、「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことを目的に掲げた。敗戦後の学制改革で廃止され、47年4月に新制小学校と新制中学校からなる6・3制の義務教育に移行した。
    −−「平和、新憲法とともに 「国民学校一年生の会」特別な思い」、『朝日新聞』2016年08月13日(土)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12509544.html





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