日記:「豚に真珠」は今では立派な「日本語」のことわざです。しかしこれは、聖書に由来する言葉。即ち、聖書が日本に再渡来する以前には、日本にはなかった言葉です

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 ヨハネ言ふ『師よ、我らに從はぬ者の、御名によりて惡鬼を逐ひ出すを見しが、我らに從はぬ故に、之を止めたり』 イエス言ひたまふ『止むな、我が名のために能力ある業をおこなひ、俄に我を譏り得る者なし。 我らに逆はぬ者は、我らに附く者なり。 キリストの者たるによりて、汝らに一杯の水を飮まする者は、我まことに汝らに告ぐ、必ずその報を失はざるべし。 また我を信ずる此の小き者の一人を躓かする者は、寧ろ大なる碾臼を頸に懸けられて、海に投げ入れられんかた勝れり。 もし汝の手なんぢを躓かせば、之を切り去れ、不具にて生命に入るは、兩手ありてゲヘナの消えぬ火に往くよりも勝るなり。 [四四なし] もし汝の足なんぢを躓かせば、之を切り去れ、蹇跛にて生命に入るは、兩足ありてゲヘナに投げ入れらるるよりも勝るなり。 [四六なし] もし汝の眼なんぢを躓かせば、之を拔き出せ、片眼にて神の國に入るは、兩眼ありてゲヘナに投げ入れらるるよりも勝るなり。 「彼處にては、その蛆つきず、火も消えぬなり」 それ人はみな火をもて鹽つけらるべし。鹽は善きものなり、されど鹽もし其の鹽氣を失はば、何をもて之に味つけん。汝ら心の中に鹽を保ち、かつ互に和ぐべし』
マルコ伝福音書(文語訳)9:38-50より。

最近、時間に全く余裕がないのだけど、3月に恩師から頂戴した『文語訳 新約聖書』(岩波文庫版、2014年、解説・構成は恩師・鈴木範久先生)を、日蓮の遺文とともに読んでいる。言うまでもなく、それぞれの信仰は違うし、手段も異なる。しかし、非常に交差する点も多く、同時読みに驚いている。

聖書は、いうまでもなく、邦訳では新共同訳から読み始め、そのあとラテン語ギリシア語へと読み始めました。そんで、最期に読んだのが、「日本語の聖書翻訳史上最高の名訳」(岩波文庫版帯)といわれる「文語訳」をはじめとする、新共同訳以前の「日本語訳」。

明治元訳から文語訳へ至る日本語翻訳史には様々な曲折がありますが、その頂点といわれる「文語訳」を読むと、「これってどこかで聞いた言葉だよな」というデジャブ感に驚かされます。

「日本人は、西洋の哲学、科学を研究するよりさきに、まず聖書一巻の研究をしなければならぬ筈だった」とは太宰治の言葉。

すなわち、信仰は一端横に置くにしても、聖書が日本にもたらされ、日本語に翻訳され、それが人々の言葉になっていく……その影響力の大きさに、「これってどこかで聞いた言葉だよな」という寸法で、驚かされてしまうわけです。

恩師は常々、キリスト教伝導に関してアジア地域では日本は失敗したといいいます。それはその信仰の受容が再渡来より常に1%人口のままだからです。しかし、その教育・文化・福祉への影響力は、信仰を受容するしないにかかわらず、その10倍だともいいます。短絡的に成功・失敗とは語ることは出来ませんが、(ユニテリアン的性格もありますので)私自身は、かくあればよいのではないかと思います。

「豚に真珠」は今では立派な「日本語」のことわざです。しかしこれは、聖書に由来する言葉。即ち、聖書が日本に再渡来する以前には、日本にはなかった言葉です。しかしその教育・文化・福祉への影響力は、結果としてみれば、信仰を受容するしないにかかわらず日本人の「口」にふつーに使われる言葉となった訳です。そこに留意したいと思います。

「地の塩 世の光」……。
イエス・キリストがそうであったように、そしてパリサイ人の如き既成の秩序(=地上の重力)と戦った日蓮がそうであったように、物語にまるめこまれてはいけない……。

私自身は、かくありたいと思います。




ちなみに吉野作造が使っていた聖書は、委員会訳。





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