覚え書:「寂聴 残された日々:15 平和だからこそ阿波踊り 「今年はぜひ」の心配り」、『朝日新聞』2016年08月12日(金)付。

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寂聴 残された日々:15 平和だからこそ阿波踊り 「今年はぜひ」の心配り
2016年8月12日
 
寂庵の庭に咲いたキキョウなど=京都市右京区、岡田匠撮影
 8月12日から、徳島では阿波踊りがはじまる。

 私は故郷徳島に少しでも恩返しをするつもりで、1981(昭和56)年、59歳のときに寂聴塾を開いて、塾生をつのり、文学塾にした。手弁当の奉仕であった。男女を問わず年齢制限もなかったので、高校生から70歳の老人まで集まった。女性が断然多かった。

 毎年阿波踊りに塾で参加しようということになり、塾の名を書いた大きな提灯(ちょうちん)を二つも作り、塾生デザインの浴衣をみんなで着て、私はその上に衣を羽織ってくりだした。私はいつもその先頭に立って踊った。お賽銭(さいせん)が、見物席から飛んできたのにはびっくりした。寂聴塾の阿波踊り参加は名物になって、うけたので塾生はすっかり有頂天になった。

 そのうち、私が岩手の天台寺の住職になってからも、阿波踊りのときは、11日、岩手から四国へ飛んで行き、12日に踊って13日には岩手に帰るという奇行を続けていた。

 塾を卒業しても塾生は踊りには必ず集まった。その踊りも、さすがに寄る年波には勝てず、数年前から出かけていない。長い歳月には、井上光晴夫妻や藤原新也横尾忠則平野啓一郎、諸氏が参加してくださったのは華やかであった。

 編集者諸氏も男女を問わず競って参加してくれるようになった。そうした客分の踊り手は、自分が一番うまいと思いこむようになるのがお愛嬌(あいきょう)だった。

     *

 「今年はぜひ踊りにきませんか?」

 と旧(ふる)い塾生たちが誘ってくれた。長患いの後なので、みんな心の中で私のことを心配してくれている。最後に踊れないまでも、車椅子で運び、浮かれてきたら、車椅子の上で上半身だけでも踊らせたいと涙ぐましいことを考えてくれている。

 「今年が最後の阿波踊りになるかもしれないでしょ」

 口には出さないが、どの目もその想(おも)いをたたえている。

 私は声が大きく、はりがあるので、電話で私の声を聞いた面々は、そろって、

 「声が元気じゃないですか。前と全く変わりませんよ」

 と言う。食欲もあるし、お酒も呑(の)める。しかし、私の体の衰えは、何としても94歳そのもので、一番楽なのは、横になって、本を読んでいるときである。忙しくて見られなかったテレビも、気がついたら2時間も続けて見ている。原稿は、指の骨が曲がってしまったので、ペンの字がますます読みづらくなっている。最近読んだ本は、長尾和宏氏の『「平穏死」10の条件』というものである。

 東京女子大で最も親交のあった近藤富枝さんが亡くなった。8月2日がお葬式だったが、私は上京できる体調ではなかった。

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 阿波踊りは44、45年、戦局の悪化で中止され、戦後の46年に復活。その時は、焼け残った浴衣や寝まきを衣装に、舗装されていない道路を裸足で踊ったそうだ。北京から着の身着のままで2歳の子供を連れ、親子3人引き揚げてきた時は、戦後はじめての阿波踊りは既に終わっていた。

 平和だからこそ阿波踊りは続けられるのである。

 ◆作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんによるエッセーです。原則、毎月第2金曜日に掲載します。
    −−「寂聴 残された日々:15 平和だからこそ阿波踊り 「今年はぜひ」の心配り」、『朝日新聞』2016年08月12日(金)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12508276.html





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