覚え書:「戦後の原点 帝国の解体 植民地支配の記憶の中で」、『朝日新聞』2016年08月28日(日)付。

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戦後の原点 帝国の解体 植民地支配の記憶の中で
2016年8月28日


日本の勢力範囲の変遷<グラフィック・大屋信徹>

 日本の歩みを振り返るシリーズ「戦後の原点」は今回、植民地帝国の解体を取り上げます。海外の版図を失った日本は復興と経済成長を成し遂げますが、その一方で戦争と植民地の記憶は風化していきました。しかし、過去は容易に消え去ることなく、対話を迫り続けています。

 ■軍艦島めぐる溝、埋めたくて 韓国

 繁華街には「居酒屋」の看板があふれ、書店には日本の作家の翻訳本が並ぶ韓国。だが、1910年から45年まで続いた植民地支配の負の記憶は、色濃く残っている。名前を日本風に変えさせられ、多くの人たちが戦争遂行のため意思に反して動員された苦しみは、若い世代にも教育や報道を通して伝えられている。

 ソウルの三育大で日本語を学ぶ金江(キムガン)(25)もそうした一人である。

 高校時代、日本のテレビドラマ「ドラゴン桜」を見て日本に興味を持った。それまで日本は悪者という認識だった。だが、日本文化にはまり、これまでに20回ほど訪日した。コンビニに入ると、店員がおつりのお札を数えながら渡してくれる親切さに感動した。「実際に接すると、悪い国という気がしなかった」。日本をどう考えたらよいのか。頭が混乱した。

 昨夏、日本で開かれた交流プログラムに参加してみた。日韓の大学生約30人が共同生活し、経済問題から食文化まで英語で語り合った。プログラムが終わる頃には、「人として会えば、うまくやっていけるんだ」との思いに満たされた。

 ところが、思い出の写真が、日本の友人のフェイスブックにアップされて、驚き、戸惑った。その中にプログラムの出発地長崎市軍艦島端島炭坑)で撮った写真があった。笑顔でVサイン。韓国側の合流前、日本側参加者だけで訪れていたのだった。

 軍艦島は「明治日本の産業革命遺産」の一つとして昨年、世界文化遺産に登録された。韓国は朝鮮半島出身者が強制労働させられた場所が含まれると反発。韓国内でもさかんに報道されテレビで「監獄島」と紹介されるなど、負の歴史の象徴として一気に認知された。

 生存者もメディアに証言している。崔璋燮(チェジャンソプ)(86)は10代半ばで軍艦島に連れてこられた。危険な作業で、天井が崩れて埋まったこともある。食事は主に豆の搾りかすだった。取材に「思い出したくもない恨めしい島だ。そんな遺跡を観光地にして利益をえるなんて、あってはならないことだ」と話した。

 日本政府は、労務動員は日本人にも適用された国民徴用令による戦時徴用で、当時は合法だとの立場だ。世界遺産の登録では、日本が見学者らに「歴史を理解できるような措置を講じる」と約束し、事態を収めたが、日韓の認識のギャップはあまりに大きい。

 軍艦島での写真を見た時、金は、仲良くなった日本人の学生のことを、「彼らは歴史を知らないだけで、悪気はないんだ」と思ってはみたが、「距離が縮まった」との感覚は揺らいでしまった。

 今年8月、今度は韓国で開かれた交流プログラムで、金は思い切って、軍艦島を発表のテーマに選んだ。両国での軍艦島へのイメージと主張を整理して伝え、意見を交わした。

 議論は、予定の2時間がきても尽きなかった。しかし、未来志向の関係を築くには、まずは客観的な資料を探すべきだという点と、「情報案内所を設けて、両面の事実を知らせるべきだ」という提言には、参加者の広い合意が得られた、と振り返る。

 「昨年この発表をしていたら、韓国側の参加者も見ることになるフェイスブック軍艦島の旅行写真は載らなかったかもしれませんね」。溝は完全に埋まることはないだろうが、すこしずつ埋めていくことはできる、と考えている。

 ■「孤児はあなたたちの中にいる」 中国

 敗戦前後の中国大陸の混乱の中で、親と生き別れた多くの日本人の子どもたちがいた。中国の養父母に育てられた彼ら残留孤児たちは、日中のはざまに生きることを強いられた存在だ。

 昨夏、日本に永住帰国を果たした孤児らが、戦後70年を機に養父母への感謝を伝え、日中友好に役立ちたいと、かつて暮らしていた中国を訪れた。

 「日本人は嫌いだ。父を日本人に殺された」。慰問先の北京市内の高齢者施設で、1人の高齢の中国人男性が大声をあげた。孤児たちは下を向き、会場は静まり返った。

 京都市から参加した残留孤児、金井睦世(75)の心には、子どものころに抱いた罪悪感がよみがえった。親族が日本人に殺された同級生が多く、学校で旧日本軍の行為を伝える映画や授業があると頭が痛くなった。「自分が日本の罪を背負っているかのように感じた」あのときの思いだった。

 孤児たちのほとんどは敵国の子どもとしてさげすまれ、いじめられた経験がある。日本が中国を侵略した歴史を国の代わりに背負わされた。

 しかし、日本では旧満州国や残留孤児の存在さえ知らない人が少なくない。日本語が不自由な彼らが口を開けば「どこの国の人」と聞かれ、「中国から帰って来た残留孤児」と答えても、けげんな顔をされる。

 金井はこう言う。「日本の人たちにはもっと戦争の歴史を知ってほしい。そうでないと私たち孤児もいないことになってしまう」

 東京都内に永住して19年の宮崎慶文(70)は孤児の歴史を知ってもらおうと演劇3部作を制作中だ。孤児が生まれた経緯を描く「孤児の涙」と養母の愛を伝える「中国のお母さん」はすでに完成、公演を果たした。いまは「私はだれですか?」に取り組む。

 日中政府が認める約2800人の孤児のうち半数以上は身元が未判明だ。老境を迎えつつある現在も、父母や自分の名前さえわからない。その心の叫びをせりふとして、脚本につづる。

 「父母を返して」「名前を返して、戸籍を返して」「孤児はあなたたちの中に、あなたたちのそばにいる」

 「帝国の記憶」が欠落した日本社会で、自分たちの存在と戦争がもたらしたものを懸命に訴えている。

 ■ふつうの人の言葉、残す 南洋群島

 強烈な日差しと、湿った風。観光地として人気のあるサイパンパラオなど赤道以北の南洋群島は、敗戦まで約30年、占領・委任統治で日本が支配していた。開拓民が入り、日本人街ができた。太平洋戦争では米軍との激戦地となり、サイパン最北端の崖からは、民間人が次々に身を投げた。

 写真家の橋口譲二(67)がこの地を訪れたのは、96年のこと。日本人と日本を知ろうと国内を歩き、写真を撮ってきた。戦後も日本に戻らなかった人や、帰国しても再び戦前に暮らした土地へ戻った人がいると知り、取材していた。

 南洋のほかインドネシアやタイなど11の国や地域で暮らす86人から話を聞き、写真を撮った。うち10人分の話をまとめた単行本「ひとりの記憶」を今年1月、出版した。最初の取材から20年経っていた。

 橋口がサイパンで会った金城善盛は当時73歳。島でサトウキビを栽培していた家族のなかで、兵隊で日本にいた自分だけが生き残った。「骨も拾っていないから」と70年に、妻と3人の子を日本に残して故郷へ戻った。10年のつもりだったが「日本に帰ったって仕事なんかない」と考え、とどまった。日本の家族から絶縁状が届いたという。

 金城が生業としている観光ガイドの仕事に同行してみると、自身と戦争のかかわりを口にしない。「自分の不幸を他人に認識してもらおうなんて、できない」という答えが返ってきた。

 「歴史は時の権力者によって書かれる。ふつうの人たちの言葉と姿をそっと差し出して記録に残したい」と橋口。ありきたりの戦争体験談にならないように、その人の雰囲気や暮らしのリズムに目を凝らす。「あなたのことを教えてください」と向かい合い、その日の朝ご飯を必ず聞いた。

 橋口と同じように、人生に戦争がはさまれた人たちに流れた時間を書き留めたのが、シンガー・ソングライター寺尾紗穂(さほ)(34)である。現地で日本語を話すお年寄りから話を聞き、沖縄や八丈島にゆかりのある人たちを訪ね、15年に「南洋と私」を刊行した。

 きっかけは、「山月記」で知られる戦前の作家・中島敦だった。南洋に勤務したことのある中島の全集を読んで、寺尾は現地の子どもが日本語で学ばされていたことを知る。「どうして知らなかったのだろう」。衝撃を受け、調べ始めた。今はパラオについて執筆する。「南洋を『楽園』『親日』とくくる見方は一方的だ」と指摘する。

 国に殉じよと個人をのみ込んだ戦争が終わったあと、個人が個人を取り戻して生き直すことは戦後の原点だったはずだ。橋口と寺尾。世代の違う2人だが、ともに南洋からその戦後の原点を問い直している。

 ■「日本に翻弄」李香蘭に思い重ね 旧満州

 日本は1932年、中国東北地方に傀儡(かいらい)国家、満州国をつくった。中国人からすれば到底受け入れられない国だったが、1人の日本人女優が懸命に「日満親善」を演じ、その澄み渡るような歌声と美貌(びぼう)が中国人の心をとらえた。

 「李香蘭」として活躍した山口淑子(1920〜2014)だ。遼寧省瀋陽近郊で生まれた。父は国策会社の南満州鉄道で社員に中国語を教えていた。その父から中国語を学び、流れるように話せるまでになった。

 38年に満州映画協会の女優としてデビュー。中国人女優というかたちで多くの映画に出演、歌手としても大人気だった。

 戦後、「中国人で民族を裏切った」罪で処刑されかかったが、日本人だと分かり、釈放され帰国した。

 日本の国策宣伝を担った象徴的な存在であるにもかかわらず中国での評価は今でも高い。

 「中国東北部の年配の中国人はみな、その美しさを覚えていますよ」。山口と藤原作弥(79)の共著「李香蘭 私の半生」を中国語に訳した林暁兵(70)は話す。88年に遼寧省で出版された中国語版は当時としては異例の12万部に上ったという。

 林は「日本の中国侵略を潔く謝罪した日本人」と山口を評価する。後年は日本のテレビで活躍。参院議員を3期務めた。92年には日中国交正常化20周年を記念して、その半生を描いたミュージカルも中国で上演された。死去の際、中国外務省のスポークスマンは「戦後、中日友好に積極的な貢献をした」と哀悼の意を示した。

 日本の植民地だった台湾でも人気は高かった。ドキュメンタリー映画李香蘭の世界」を昨年制作した台湾人監督、陳メイ君は「ずっと両親がファンだったから、私も小さいころから知っていた」。

 台湾を舞台にした映画「サヨンの鐘」の挿入歌「台湾軍の歌」は、悲哀さと懐かしさをもって、戦後も長く歌われたそうだ。

 林は「中国人にとって、李香蘭とは(日本に)利用された人なのだ」。日本の侵略に翻弄(ほんろう)された中国の人々は、彼女の姿に自らの思いも重ねたのではないか、という。

 ■日本の降伏時、660万人が海外に

 1945年、ポツダム宣言を受諾して日本が降伏したとき、軍民あわせて約660万人の日本人が海外にいた。敗戦により、日本の主権の及ぶ範囲は、本州、北海道、四国、九州と周辺の諸島に限定された。アジアに広がった勢力範囲は、急速に収縮した。翌年に入り、旧支配地域にいた人々の引き揚げが本格化した。

 朝鮮半島や旧満州、南洋、そしてアジアに広がった戦場から。飢えや病気に苦しみ、中には逃避行で自決に追いやられた人々もいた。46年は植民地を支配した帝国が戦後日本へと移行した原点の年だった。

 70年後の視点で振り返ると、それは日本と周辺諸国との間に、より深い溝が刻まれた年でもある。米国の占領下で復興を果たし、日米安保体制のもとで高度経済成長の波に乗っていく日本と対照的に、朝鮮半島をはじめとするアジアの国々は、戦争など時代の荒波にもまれ続けた。

 49年夏、当時の吉田茂首相は、占領軍最高司令官マッカーサーあての書簡で、すべての在日朝鮮人の本国送還を望む考えを伝えた。食糧事情の悪さと犯罪率の高さを理由に挙げている。そこには過去を切り捨て、白紙から国造りを考える意識がうかがえる。

 その後、朝鮮戦争は日本経済を復活させる「朝鮮特需」につながり、東南アジアへの賠償も日本の投資や市場獲得と結びついた。実利優先、現状肯定の雰囲気の中で、戦争や植民地支配の過去はむしろ忘却されていった。経済大国への道は、和解や相互理解を伴うものではなかった。

 ◆文中は敬称略。大久保真紀、下司佳代子、藤原秀人、古谷浩一、北郷美由紀、三浦俊章が担当しました。

 「戦後の原点」は5月、6月の回で東京裁判を特集しており、次回は9月下旬に「憲法9条 理念と政策」を掲載する予定です。
    −−「戦後の原点 帝国の解体 植民地支配の記憶の中で」、『朝日新聞』2016年08月28日(日)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12531605.html


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