覚え書:「石刻が明かす唐の景教 中国・洛陽に複数の資料」、『朝日新聞』2016年09月22日(木)付。

Resize4717

        • -

石刻が明かす唐の景教 中国・洛陽に複数の資料
2016年9月22日


中国・洛陽で見つかった景教経幢=いずれも福島恵さん提供
写真・図版
 7世紀にササン朝ペルシャから中国・唐に伝わった景教(けいきょう)(ネストリウス派キリスト教)=キーワード=に関する石刻資料が、中国河南省の古都洛陽で確認された。シルクロードの東西交易を支配したイラン系民族、ソグド人の信仰の様子とともに、仏教との“交流”ぶりもうかがえる興味深い資料だ。

 唐(618〜907年)の副都として栄えた洛陽で2006年、八角形の石柱「経幢(きょうどう)」が見つかった。仏教経典や縁起などが記され、寺院や墓域に建立されることが多いが、注目されるのは景教徒のために造られたとみられるためだ。

 洛陽で実物を観察した福島恵・日本学術振興会特別研究員(東西交渉史)によると、現存するのは八角柱の上半部だけで、下半部は斜めに断裂していた。高さ約85センチ、側面の一つの幅は14〜16センチ。上方に十字架とともに仏教の飛天の図像が、その下に計42行の漢文が縦方向に刻まれていた。

 漢文は景教の経文にあたる「大秦(たいしん)景教宣元至本経(せんげんしほんきょう)」と、経幢の建立の由来を記した「大秦景教宣元至本経幢記」の二つ。記載から、(1)経幢は施主の亡き母「安氏太夫人」の墓域に建立された(2)814年に「洛陽県感徳郷柏仁里(かんとくきょうはくじんり)」(地名)を墓地として購入した(3)安氏太夫人の親族に景教僧がいる――などがわかった。

 重要なのは、登場する人物が「安」(ブハラ)や「康」(サマルカンド)など中央アジアの出身都市に応じた漢字の姓から、ソグド人と推測できる点だ。

 ソグド人は中央アジアのソグディアナ(現在のウズベキスタンなど)に故郷を持ち、ソグド語はシルクロードの国際共通語になった。近年の研究では、ソグド人は唐の建国・発展を軍事面で支えたとの見方もある。多くがゾロアスター教(拝火教)を信仰したとされてきたが、景教徒も相当数いた可能性が出てきた。

 一方、洛陽東郊で2010年に出土したとされる「花献(かけん)墓誌」(828年作成)と「花献妻安氏墓誌」(821年作成)が景教徒の墓誌だったことも、中国人研究者によって14年に判明した。花献はソグディアナに近いホラズム出身者の可能性があり、妻はソグド人とみられる。二つの墓誌の文章を作成した人物が、洛陽の仏教寺院「聖善寺(しょうぜんじ)」の僧だったこともわかった。

 洛陽のソグド人は「南市(なんし)」という政府公認の商品交易場の近くに多く住んだとされる。墓誌は、花献夫妻の私邸は景教寺院(大秦寺〈たいしんじ〉)がある南市近くの「修善坊(しゅうぜんぼう)」にあったと記す。福島さんは、墓誌をつくった僧侶のいた聖善寺にも近い距離にあった点を重視。「9世紀の南市周辺にあったソグド人コミュニティーでは、大秦寺の景教徒と聖善寺の仏教徒が深く交流していたのでは」とみる。

 森安孝夫・大阪大名誉教授(中央アジア史)は「多民族国家である唐朝では、多宗教・多文化が混在・融合していた。洛陽での発見は、その担い手としてソグド人も深く関わったことを明らかにした点で重要だ」と話す。

 (塚本和人)

 ◆キーワード

 <景教> 古代キリスト教の教派の一つ。聖母マリアが神の母であることを否定するなど、キリストやマリアの神性を弱めかねない主張だったため、キリスト教主流派から異端とされ、東方に移動した。635年、ササン朝ペルシャの宣教師を通じて唐に伝来。王朝が公認し、長安に波斯(はし)寺(のち大秦寺と改称)が建設され、781年、景教教義や伝来の由来を記した「大秦景教流行中国碑」が長安の大秦寺に建立された。845年の会昌の廃仏で禁圧され、衰退した。
    −−「石刻が明かす唐の景教 中国・洛陽に複数の資料」、『朝日新聞』2016年09月22日(木)付。

        • -


http://www.asahi.com/articles/DA3S12571066.html





Resize4705

Resize3735