覚え書:「アンジェイ・ワイダ監督を悼む 祖国への思い、鋭く温かく 大竹洋子さん」、『朝日新聞』2016年10月12日(水)付。

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アンジェイ・ワイダ監督を悼む 祖国への思い、鋭く温かく 大竹洋子さん
2016年10月12日
 
「大理石の男」
 
 ポーランドアンジェイ・ワイダ監督が9日死去した。1980年に「大理石の男」を公開して以来、数多くの監督作を上映してきた東京・岩波ホールの前企画室長で、元東京国際女性映画祭ディレクターの大竹洋子さんが、90歳で逝ったワイダ監督の作品世界を振り返りつつ、その厳しくも温かい人柄をしのんだ。

    ◇

 1980年夏、「大理石の男」(77年)のキャンペーンでアンジェイ・ワイダ監督とクリスティナ夫人(舞台美術家)が来日した。ワイダさんの来日は70年の大阪万博が最初で、それ以来だという。

 期待と畏(おそ)れで待ち受けていた私たちに、ワイダさんはにこりともしなかった。鋭いまなざしが恐ろしくて、「こんにちは、ワイダさん」という覚えたてのポーランド語を発することもできなかった。

 すぐに行われた記者会見ではさらに厳しかった。グダニスク造船所で大ストライキが起き、「連帯」が生まれる直前の予断を許さない祖国ポーランドが胸から離れなかったのであろう。

 あれから35年余りが経ち、私たちはまるで家族のようになった。ワイダさんの家はワルシャワにあるが、旧都クラクフに滞在する日も多い。ナチスドイツはワルシャワを破壊したあと、この美しいクラクフに占領本部をおいた。

 87年に京都賞を受けたワイダさんは賞金4500万円を基金として、クラクフに日本美術館を設立したいと提唱し、高野悦子さん(故人)を先頭に募金活動が始まった。多くの日本人に日本とポーランド政府の協力も得て、日本美術技術博物館(愛称Manggha)が誕生したのは94年11月のことだった。

 ワイダさんの父上は騎兵隊の将校で戦場に赴いていた。母上と息子たちが、カティンですでに殺されていた帰らぬ父を待ち続けたのも、ドイツの友好国日本の美術展が開かれ、10代のワイダ少年が初めて見る浮世絵に衝撃を受けて、映画監督への道を歩み出したのも、ここクラクフだった。

 ワイダさんは、常にポーランド人のために映画を撮っていた。政治的作品も文芸作品も、ポーランドという国の歴史の流れの中にあった。決して外国人に向けて作られたものではない。しかし、それゆえに世界の人々に感銘を与えることになった。このぶれることのない姿勢を私は心から尊敬する。

 東京国際女性映画祭にも優しかった。「カティンの森」(2007年)は女性が主役だから、まず女性映画祭で上映してから岩波ホールで公開するようにと、ワイダさんは書き送ってくれた。それで日本における「カティンの森」の初上映、という栄誉を私は担ったのである。

 99年、完成したばかりの「パン・タデウシュ物語」を見ようとクラクフを訪ねた。19世紀ポーランドの詩人アダム・ミツキェヴィチの国民的文学を原作にした作品だ。当時のローマ法王クラクフ近郊出身のヨハネ・パウロ2世だった。バチカンでこれを見終わった法王は「ミツキェヴィチさんがどんなにお喜びになるでしょう」と言われた。ワイダさんには一番うれしい言葉だった。

 14年12月にManggha創立20周年記念のセレモニーでお会いしたのが最後になった。誰もが素晴らしいと称賛する「ポヴィドキ」(残像の意)という作品を残してワイダさんは逝ってしまった。

 名優ズビグニェフ・ツィブルスキ亡きあとのワイダさんお気に入りの俳優はダニエル・オルブリフスキだが、彼は訃報(ふほう)に接して「アンジェイはミツキェヴィチに会えてさぞうれしいだろう」と言ったそうである。私も同じことを考えていた。そしてツィブルスキにも会えるのだと。そんなことを思って気を紛らわせながら、この取り返しのつかない悲しみに私は耐えている。
    −−「アンジェイ・ワイダ監督を悼む 祖国への思い、鋭く温かく 大竹洋子さん」、『朝日新聞』2016年10月12日(水)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12602453.html





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