日記:新憲法は、だれが起草したにせよ、それを支持し、歓迎したのは日本国民だった、日本国民が選んだ憲法なんだということを忘れてはいけない

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 最後にもう一度、戦後デモクラシーの問題にたちかえって考えてみますと、敗戦後、日本は連合国に占領されましたが、占領軍は何をやってもよかったのではなく、ポツダム宣言の拘束を受けていました。その一三項目のうち、基本的に重要な点は二つあり、一つは日本を民主化すること、もう一つは、戦後の日本の政治形態は自由に表現された日本国民の意志によって決めるべきだということでした。
 この二つの枠組が重要な拘束を占領軍に与えていました。ですから占領軍は日本の世論を気にしていました。そのころの日本の国民は、戦争中のあの軍国主義ファシズムは嫌いだと考えていた。軍閥はいやだが、裕仁天皇(後の昭和天皇)はおいといてあげたいという気持ちを持っていた。明治以来の教育の結果でもあったでしょうが、それが、九二パーセントくらいの日本国民の世論でした。ですから、日本の天皇制を廃止しようと思って日本に来たマッカーサーは、世論が示す国民の意志がそうであり、また、裕仁天皇民主化に積極的に賛成であり、マッカーサーにも非常に協力的でした。そこで、天皇は保持しながら、他方、特高警察や軍閥や右翼を徹底的に排除し、憲法を改正して民主主義の政治体制を確立しようとしました。財閥の解体、労働組合の合法化、土地制度の改革、婦人参政権、男女共学等々の民主化制作がつぎつぎにうち出されていきました。
 日本国民には軍閥右翼団体を排除するだけの力はありませんでした。しかし、戦後の民主化は日本国民の大多数にとって解放でした。あの憲法アメリカに押しつけられた憲法だという政治家がいますが、私どもが、思い出さなくてはいけないと思うのは、次のことです。新憲法日本国憲法)は一九四六年一一月三日に公布され、施行されたのが一九四七年五月三日、その施行の一月前の四月に衆参両院の総選挙が行われました。それは、新憲法に対する国民投票のような意味を持った総選挙でした。この選挙の時、新憲法の採択を支持するということを公表した人達が国会の大多数を占めたのでした。ですから、私は、新憲法は、だれが起草したにせよ、それを支持し、歓迎したのは日本国民だった、日本国民が選んだ憲法なんだということを忘れてはいけないと思います。マッカーサーがその回想録に次のようなことを書いています。自分は新憲法に対する国民投票ともいうべき総選挙によって日本国民による審判が下るんだと思ってじっと待っていた。そうすると総選挙の結果は、この憲法の採択支持を表明した人達が国民の大多数によってサポートされたことがわかり、ホッとするものを感じたと。あの憲法を歓迎した国民、あの憲法の理念を支持する思想は、決して、思いつきでも、突然出て来たものでもありません。上述のように、諸々の思想運動として展開した大正デモクラシーの時代に青年時代、あるいは子供時代を過ごした人達が、そのデモクラシーの思想で養われて、それによって教育された人達が、ファシズムの時代はこわいから皆だまっていましたが、デモクラシーを志向する心は、地下水となって戦時下にも健在でした。そして、戦後、民主化を使命とした占領軍によって軍国主義的な軍閥や右翼が取り除かれた時、内発的に国民のふところからあふれ出てきたのでした。私は、戦後のデモクラシーは、ただ単にアメリカからのもらいものではなく、「これで解放される」と思った人達のふところ深くに用意されていたものだったと信じています。戦後のデモクラシーの根は、大正デモクラシーの時期に培われていたものだったといっていいと思うものです。そういうものがなければ、戦後の民主主義はあのように多くの人々に解放を感じさせ、自由を喜ばせるものとはならなかっただろうと思います。
 ですから、私は大正デモクラシーは、戦後デモクラシーのの土着的根を培っていたと考えるものであります。それを、今、風前の灯のようにしてはならないと思います。
    −−武田清子『戦後デモクラシーの源流』岩波書店、1995年、164−166頁。

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