日記:キングを導いた二つの視点 ニーバーの社会関係の複雑な問題に内在する悪の捉え方(「社会倫理的な視点」)と、ガンディの実践(「非暴力の抵抗」)

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 社会正義、社会悪との闘いの問題について、インドのマハトマ・ガンディとアメリカのマーティン・ルーサー・キングの非暴力の抵抗の問題について、ニーバーは、宗教が政治問題に貢献し得るものとして、ガンディの非暴力の抵抗以上に大きな貢献はないと言っています。人間は、あらゆる社会闘争におて、どの党派も他の党派の悪に気を奪われて、自己の悪が見えなくなってしまう。しかし、ガンディが唱えた非暴力は、物質的暴力だけではなく、憎しみを伴う精神的暴力もいけないということです。そういう意味での非暴力の抵抗、そこにおける非暴力の冷静さ、憎しみを伴わない冷静さは、自分の中にも、敵の中にも、人間としての共通の脆さを見出し、その憎悪も美徳も両方が、共通の根を持っているということを思い出させる。そして、人間を謙虚にし、悔い改めへと導くということです。ニーバーが、ガンディの非暴力の抵抗による独立運動を大変高く評価しているということは面白いことです。
 ガンディと比較して、トルストイの教理を考えてみると、宗教的愛の理想と政治的強制の必要とを関係づけることをしなかったトルストイの宗教的な理想主義は、結局は、ツァー政権の暴力の悪の前に農民の善を以て無抵抗で勝利を得ようとして失敗、ツァー政権の暴力によって農民が、犠牲にされる結果となったというのです。ニーバーが、政治権力の悪とのたたかいに関して、ガンディの非暴力の抵抗と、トルストイの無抵抗主義を対照して、論じているのは重要だと思います。日本ではガンディの運動を無抵抗主義と解した人たちが多くあったように思いますが、インドの独立運動におけるガンディ“非暴力の抵抗”をアメリカ人のニーバーは的確にとらえています。ニーバーは、専制政治や不当な植民地支配等の社会悪の克服の為には、物質的、精神的暴力を伴わない抵抗を以ての闘い、そういう意味での、ある強制が必要だと考えており、これも、ニーバーの社会倫理の問題の見方の一つの例になると思います。
 もう一つは、人種差別と闘ったマーティン・ルーサー・キングです。彼の公民権運動は言うまでもなく、皆様、よくご存知のところですが、キングは彼の著書 Stride Toward Freedom (一九五八年、雪山慶正訳『自由への大いなる歩み』岩波新書、一九五九年)の中で、彼が公民権運動を進めていく上で思想的に大きな影響を受けた人として、ニーバーとガンディを挙げています。彼は、「ニーバーは浅薄な楽観主義の幻想や虚偽の理想主義の危険を認めることを助けてくれた。彼の神学は、人間存在の一切の面に罪が存在することを、絶えず思い出させてくれる。ニーバーは、人間の社会的環境の複雑さと集団的な悪の目くるめくばかりの現実を見抜く眼を与えてくれた」ということを書いています。
 それとともに、キングは、他方、インドのガンディからの影響も非常に大きかった。真の平和とは、悪に対する無抵抗ではなく、悪に対する非暴力の抵抗であることを、自分はガンディから学んだといっています。ニーバーの社会関係の複雑な問題に内在する悪の捉え方、つまり「社会倫理的な視点」と、ガンディの「非暴力の抵抗」との二つが、彼の公民権運動を進めていく上で非常に大きな指導原理となり、彼自身を導いてくれたといっています。キングがモントゴメリーでの非暴力の抵抗運動で、公民権運動の最初の成功を収め、多くのアメリカ人を説得してゆき、やがてアメリカ人が自分たちの悪を悔い、公民権条例(Civil Rights Act)が一九六四年に確立するというところへ導いていったと思うのです。
 今日、アメリカでは、キングの指導下に忍耐強く進められた公民権運動を経験せず、その意義を知らない世代が多くなり、人種的対立が起こっていますが、アメリカの三〇〇の都市の市長を黒人が占め、病院、大学での医師や教師に黒人のクォーター・システムが実施されているなど、公民権運動の成果は顕著なものがあります。まだまだ解決されるべき問題はたくさんありますが。
    −−武田清子『戦後デモクラシーの源流』岩波書店、1995年、184−187頁。

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