覚え書:「沖縄「基地」禍 日米安保の現実、目背ける本土」、『朝日新聞』2017年02月18日(土)付。

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沖縄「基地」禍 日米安保の現実、目背ける本土
岡田玄、岩崎生之助2017年2月18日

日本軍の壕(ごう)がダイナマイトで爆破されるのを見つめる米兵(1945年、沖縄県公文書館提供)

■戦後の原点

 地上戦で約20万人が命を落としたとされる沖縄。米国は戦後、経済復興とセットで基地建設を進め、平和憲法を手にした日本本土は、基地が沖縄に集中していく現実から目を背けた。その構図はいまも島に影を落とす。文書と証言から基地問題の源流をたどった。

特集:戦後の原点
■冷戦、消えた返還論

 米軍による占領から2年あまりが過ぎた1947年10月14日。沖縄の帰属をめぐる分岐点となった、ある文書が米国務省で作成された。

 〈沖縄に軍事施設を求める前提で講和交渉を行うべきである〉

 国務長官らに宛てた報告書だった。まとめたのは、戦後に新設された政策企画部。部長は、対ソ封じ込め政策を主導したジョージ・ケナンだった。

 半年ほど前、連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官、マッカーサー憲法制定や戦後改革が順調に進んだことを踏まえ、日本と早期講和を結ぶ用意があると表明していた。

 沖縄については、戦略的重要性から米国による保有を主張する米軍部に対し、国務省は日本に返還すべきだとの立場をとってきた。〈琉球列島の取得は、自国にも他国にも認めなかった領土不拡大の原則に反する〉(46年6月24日付米公文書)と考えていた。

 だが、時代は大国間の協調から冷戦へと移ろうとしていた。米ソの緊張が急速に高まり、中国でも共産党が勢力を伸ばしていた。米国は共産主義の「封じ込め」にかじを切った。

 48年3月、ケナンはマッカーサーを東京に訪ね、対日政策の方向性を確認した。マッカーサーは、西太平洋の安全保障には沖縄に空軍力を配備することが死活的に重要だとしたうえで、こう語ったという。

 〈沖縄に十分な兵力を置けるなら、アジア大陸からの防衛のための兵力を日本本土には求めない〉(48年3月5日、ケナンによるマッカーサーとの会談記録)

ログイン前の続き■経済再興、依存生む

 米軍政府の高官は住民たちにクギを刺した。〈軍政府は猫で沖縄はネズミである。猫の許す範囲しかネズミは遊べない〉(46年4月18日、軍民協議会議事録)

 占領とは、住民に服従を迫ることだ。本土も、沖縄もその点は同じだった。ただ、激しい地上戦があった沖縄では、通貨制度すら失われていた。

 45年6月、軍政府は沖縄県慶良間諸島で経済実験をした。人口400人の島に貨幣を流通させ、結果をもとに、給与や物価を決めた。翌46年、米軍は沖縄本島で通貨を復活させたが、激しいインフレが続いた。

 復興へ本腰を入れたのは、沖縄の重要性が再認識された後だ。49年10月に着任したシーツ軍政長官は「沖縄を再興する」と宣言し、経済援助を進めた。住民からは「シーツの善政」と歓迎されたが、大規模な基地建設も同時に始めた。

 米国は日本本土を「反共の防壁」とするため、沖縄を利用した。沖縄でしか使えない通貨として軍政府が発行した「B円」に、日本円の3倍の価値を持たせた。基地建設でB円を稼いだ沖縄には、本土から大量の物資が輸入された。B円から両替されたドルが流れ込んだ本土は潤った。

 「米軍の経済政策は民心の安定とともに、基地を安く維持することが一貫した目的だった。基地と輸入に依存した、かつての沖縄経済の原点がここにある」と川平成雄・琉球大元教授は指摘する。観光業が育ち、県の基地関連収入は復帰前の65年の推計約30%から約5%(2013年)に減ったが、「沖縄では製造業が育たなかった。影響はいまも続いている」と言う。

■講和、世論は無頓着

 本土では、47年5月3日、新憲法が施行された。各地で祝賀会が開かれ、国民が手にした「自由、平等、平和」を喜んだ。

 その約1カ月後、外国人記者団と会見した外相・芦田均は、沖縄の帰属問題に言及した。

 〈沖縄は日本経済にとって大して重要ではないが、日本人は感情からいって、この島の返還を希望しているのである〉(47年6月7日付朝日新聞

 だが、日本側の本音は違うとマッカーサーは考えていた。

 〈沖縄人は日本人ではない。日本は米国の沖縄占領に反対しないだろう〉(47年6月27日、米国人記者団との会見)

 芦田発言の3カ月後、昭和天皇は側近を通じ、米側に自らの考えを伝えた。

 〈天皇は米国が沖縄及び他の琉球諸島の軍事占領を継続することを希望されており、その占領は米国の利益となり、また日本を保護することにもなる〉(47年9月19日、昭和天皇実録

 沖縄は日本が52年に独立を回復した後も、米国の支配の下に引き続き置かれることになった。

 51年9月に朝日新聞が実施した世論調査では、講和条約の不満な点を沖縄や小笠原など「南方諸島の(米国による)信託統治」と答えた人はわずか6%だった。

 沖縄ではほどなく、「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる米軍による大規模な土地の強制接収が始まった。(岡田玄)

強制移住で2年転々

 沖縄を車で走ると、カーナビの画面が灰色に変わる。米軍基地だ。県の面積に占める割合はおよそ1割。その成り立ちは72年前の沖縄戦にさかのぼる。

 1945年4月、米軍は日本本土を攻撃する基地をつくるため、沖縄本島に侵攻した。住民は戦闘などに巻き込まれ、4人に1人が命を落としたと言われる。

 本島北部から西へ9キロの離島・伊江島。島に残った住民約3600人の4割が、「沖縄戦の縮図」と言われる激しい地上戦の犠牲になった。住民同士が殺し合う「集団自決」や、赤ちゃんを背負った女性による突撃もあったという。

 当時9歳だった島袋満英さん(81)は、祖父と兄を失った。上陸した米軍に捕まり、生き残った家族とともにテントが並ぶ島内の収容所に入れられた。

 その後、約70キロ離れた渡嘉敷(とかしき)島に連れて行かれた。身を寄せた集落は米兵に見張られ、周りは地雷で囲まれていた。配給はやがて途絶え、自給自足の生活が始まった。

 1年後、一家はさらに本島北部に移住させられた。伊江島に戻る許可が下りたのは47年春。2年ぶりに目に映る故郷は「米軍の島」になっていた。ソテツ林には弾薬が山積みだった。

 沖縄では米軍に捕まった住民たちが収容所に住まわされ、わずかな配給食で命をつないだ。その数、約30万人。強制移住は47年まで続いたところもあり、この間に米軍は基地をつくった。

 嘉手納飛行場普天間飛行場といった主要基地の原型ができたのも、このころだ。50年代には「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる強引な土地接収で基地はさらに広げられた。伊江島では民家が焼き払われた。

 島袋さんは80年代、村の助役として新たな米軍施設の建設を認めた。どこかが受け皿になる必要があるし、見返りの補助金で立ち遅れた教育環境を充実させたいとも考えた。

 それでも、オスプレイが飛びかう空に割り切れない思いがある。「島から米軍が去る日はこないかもしれない」。島の面積の約35%はいまも補助飛行場などの米軍施設が占めている。

■政治活動を通報…仲間が失業

 戦争を生き延びた住民のなかには敗戦後まもなく、米軍に職を求める人もいた。雇用が失われた沖縄にとって、基地が貴重な働き口になった。

 那覇軍港には「港湾作業隊」がつくられ、約2千人が物資の荷揚げなどにあたった。証言記録によると、月給は数百B円と教師よりも高給だったが、見張りのフィリピン人に撃たれる被害もあった。

 作業隊の沖縄側トップは国場(こくば)幸太郎。沖縄で初めて米軍工事を受注し、地場最大手の建設会社に飛躍を遂げた「国場組」創業者だ。

 那覇市の小那覇全人(おなはぜんじん)さん(91)は国場のもとで約4年、作業内容の報告書を英訳する仕事をした。米軍が敵視する政治活動をした作業員の名を伝えることもあった。名指しした人は解雇され、住まいも追われた。

 米軍が自由までも管理している――。進学した東京の大学で学生運動の輪に加わり、沖縄と本土の違いに気づいた。その後、沖縄に戻って、放送局でラジオの「方言ニュース」を30年間担当した。普天間飛行場辺野古移設など、基地問題を伝える原稿も読んだ。

 辺野古では今月、埋め立てに向けた本格的な工事が始まり、日米両首脳は改めて辺野古移設を「唯一の解決策」と確認した。

 「なぜ沖縄に基地があるのか。本土の理解が薄れていっているように感じる」。小那覇さんは70年前、仲間の政治活動を米軍に伝えた9枚の文書をいまも捨てられないでいる。(岩崎生之助)

■「占領政策の枠組み、今も政府利用」新崎盛暉・沖縄大名誉教授

 日本にとって沖縄とは何なのか――。在日米軍専用施設の7割が集中する沖縄の現状を見ると、この問いに向き合わざるを得ない。

 戦後、日本は平和憲法の理念を大切にする一方、米軍による沖縄支配や基地建設に目をつぶった。日米両政府は日米関係を安定させるため、日本人の対米感情を悪化させないよう基地を本土から移転させた。

 沖縄が日本から切り離された1952年におよそ1対9だった沖縄と本土の米軍基地の面積比率は、60年代に1対1になり、本土復帰後の70年代半ばには3対1に逆転した。その結果、米軍と同居することで日米安保が成り立っているという当たり前の現実が、本土では見えにくくなった。

 本土では沖縄への基地の一極集中が消極的に支持されるようになった。それどころか、「沖縄は基地で潤っている」といった、事実に反する言説まで広まっている。

 普天間飛行場の移設を理由とした辺野古への新基地建設に沖縄が反対する根底には、米軍の占領政策によってつくられた日米関係の枠組みを、日本政府がいまなお積極的に利用していることがある。

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 ◆次回の「戦後の原点」は3月に「東アジアと欧州」を特集する予定です。(岡田玄、岩崎生之助)
    −−「沖縄「基地」禍 日米安保の現実、目背ける本土」、『朝日新聞』2017年02月18日(土)付。

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