日記:民族は個人と同じく失敗し過つ

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民族は個人と同じく失敗し過つ

 前回の定義集に、「八月十五日と南原繁を語る会」のことを書きました。今回がその当日なのですが、準備の間に次つぎ思い出すことがあったので、さきの拾遺として書きます。
 企画の中心の立花隆さんから連絡があった時、私はもう老年で夢見たことと現実を取り違えているのかも知れないが、若いころ南原繁先生の前で、渡辺一夫さんから、いわばまじめにからかわれたことがある……その記憶を確かめたいけれど、といいました。
 こういうあいまいな期待に的確な情報で応えてくださるのが立花さんで、「わだつみ会」事務局の女性から(あの会はなお活動している、というのが私の最初の感銘でした)思いがけない資料が届けられました。
 一九六三年十二月一日、豊島公会堂で開かれた「わだつみ会」主催、学徒出陣二十周年記念「不戦の誓いを新たに」という集会に、出陣学徒を送らねばならなかった世代としての南原繁渡辺一夫が講演し、戦後世代の立場から大江が感想をのべている……
 私は正確に思い出しました。戦没学生の遺族の方たちや、戦地から帰還して学業を続け、戦後十八年の復興に力をつくされたことあきらかな、知的にタフな壮年の男たちの間を通って控室へ向かう私は、気後れしていました。後でのべますが、私には個人的な事情があって追い詰められるようだった数箇月に続き、久びさに人前に出るという気持ちもあったのでした。
 ドアを開くと暖房のない広い部屋で外套を着たまま静かな威厳をたたえて向かい合った御二人が、振り返られました。急ぎ外套を脱ごうとする私を制止して、渡辺さんが張りのある声で発せられた言葉、
 −−南原先生、若い大江君が素っ頓狂なことを申しても、お許し下さい!
 南原繁氏は、興味深そうな目でじっと私を見つめられ、微笑されました。渡邉さんがイタズラっぽい笑い声をたてられ、私は致し方なく(渡辺さんの口癖ですが)笑って、気後れから解き放たれたのです。
 さきに個人的な事情といったのは、この年の六月半ば、私と家内の最初の子供が頭部に大きい畸型を持って生まれて来たことです。私は混乱しました。まだ処置の定まっていない赤んぼうを病院に置いたまま、私は広島の原水爆禁止大会に行き、期間中、原爆病院長の、自ら被爆されながら被爆者治療にあたられている重藤文夫博士のもとに日参しました。
 それから東京に帰り、初めて息子の課題を正面から引き受ける勇気をえて、入院中の家内と話し合い、九月になって大きい手術が行われました。十一月末日に、その光を私らの借間に連れ戻った日、初めての世話に奮闘して仮眠している家内に代わって、ベビーベッド脇で本を読んでいた私に、ずっと連絡がとれなかったが、明日の豊島公会堂の、南原・渡辺先生の講演に応える話をよろしく頼む、という電話がありました。
 控室のなごやかさとは別に、両先生の講演は、戦後すぐ再出発へ向けてなされた発言に比べても、位現実認識を反映していたと思います。渡辺先生は今ある「平和」を良い平和にする苦しさに耐えねば、と話されましたし、南原先生の講演は、敗戦の翌年の紀元節講演で困難を超えての復興を呼びかけられ、その多くが達成をおさめるなか、露呈して来ていた新たしい危機を見すえてのものです。戦争末期、学生に何を助言できるかが辛く苦しかった、と南原先生は語られました。
《私は彼らに「国の命を拒んでも各自の良心に従って行動し給え》とは言い兼ねた。いな、敢えて言わなかった。(中略)私は学生と語った。「国家がいま存亡の関頭に立っているとき、個々人の意志がどうであろうとも、われわれは国民全体の意志によって行動しなければならない。われわれはこの祖国を愛する、祖国と運命を共にすべきである。ただ、民族は個人と同じように、多くの失敗と過誤を冒すものである。そのために、わが民族は大きな犠牲と償いを払わねばならぬかも知れない。しかし、それはやがて日本民族と国家の真の自覚と発展への道となるであろう」と。》(『南原繁著作集』第九巻、岩波書店
 私は満員の聴衆でもなお寒い舞台脇に立って、聞いていました。そして、この老哲学者の倫理的(モラール)な強さに対し、若い小説家の自分が、半年の間動揺し、懊悩し続けた弱さを意識しました。さらに障害を持った子供と共生する家内との将来、すぐにも再開した仕事のこと。
 それからの一年、私は『個人的な体験』(新潮文庫)と『ヒロシマ・ノート』(岩波新書)を書くことでやり直し始めたのですが、あの舞台脇での様ざまな思いがこれらの小説とエッセイの基点にあることを、改めて自覚します。
 『ヒロシマ・ノート』をお送りすると、−−重藤文夫博士のような方こそ、「地の塩」です、という渡辺一夫さんの葉書が届きました。
    −−大江健三郎『定義集』朝日新聞出版、2012年、25−28頁。

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