覚え書:「日曜に想う 政治の言葉と虹の色分け 編集委員・大野博人」、『朝日新聞』2017年03月12日(日)付。

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日曜に想う 政治の言葉と虹の色分け 編集委員・大野博人
2017年3月12日

「朝の形」 絵・皆川明
 まず物や出来事があり、それに対応して言葉がある、というほど両者の関係は単純ではない。しばしば言葉の方がものごとの姿や形を決める。

 例としてよく出されるのは虹。言うまでもなく空気中の細かい水の粒子がプリズムの働きをして、太陽の光線を分光して現れる現象だ。波長が最も長い赤から最も短い紫まで連続的に変化していて、実際には色の境目はない。

 日本では一般的に赤橙黄緑青藍紫(せきとうおうりょくせいらんし)の7色と見なすが、ほかの文化圏では必ずしもそうではない。言語学者、鈴木孝夫さんの名著「日本語と外国語」によると、英米やロシア、ドイツなどでは6色とか5色と見る人が少なくないという。世界には虹を3色とか2色と見る文化もあるらしい。古代ギリシャアリストテレスは4色、またラテン語の世界ではセネカが5色と表現しているそうだ。

 7色もいくつかある恣意(しい)的な分け方のひとつということになる。色が無限にあるからといって、単語を無限に用意はできない。だから、あまり多くない数の色に分類して認識するのは、表現したり人に伝えたりする上で合理的だ。連続している現実にあえて境目を設けて物事をわかりやすく話しやすくする。

 ただ、言葉の分け方が現実をそのまま反映するわけでないことには注意を払わなければならない。つい、境目が現実にあるかのように考えてしまうからだ。

 最近の政治論争を聞きながら、この虹の色分けの話を思い起こした。

    *

 「武力衝突」か「戦闘」か。自衛隊の撤収が決まった南スーダンで昨夏に起きたことをめぐる論争もそのひとつだ。現地の自衛隊の日報などでは「戦闘」と表現される。他方、政府は自衛隊派遣の法的枠組みからすると「衝突」だという。

 虹の色にたとえて考えてみる。一般的な7色分けならば「緑」に当たる部分を、政府が用意しているより細かい10色分けで見ると、そこは「黄緑」であって、まだ「緑」ではない、というようなものか。この問題は、戦闘を繰り広げている当事者が「国に準じる」組織かそうではないのか、という境目論争にも波及した。でも現実はひとつ。その分節の仕方にこだわることは、起きていることへの対処とは別のことだ。

 首相夫人は「公人」ではなく「私人」。これも境目を強引に画定しようとする言い方だ。総理大臣の妻という肩書が実際にどんな影響力を持ったのかをチェックしたほうが、どこに問題があるか理解するのに意味があるし、今後に向けての教訓も得られると思うのだが。

 「共謀罪」をめぐる議論では、政府は「一般市民に累は及ばない」と主張する。たいていの人は自分は「一般市民」だと思っている。だから、自分は捜査の対象になるまいと考える。でも「一般市民」の示す範囲はどこまでだろう。政府に批判的で、ときに異議申し立て活動にも乗り出すグループのメンバーは「一般市民」と分類されるかどうか。果たして「一般市民」と思っている人たちの色分けと、政府の色分けは同じだろうか。

 虹の色は、いくつに数えてもいいようなのに、多くの国で教育や科学の場では7が主流だそうだ。なぜか。近代光学の祖でもあるニュートンが言いだしたからだろう、と「日本語と外国語」の中で鈴木さんは推測している。そして、キリスト教神学の中で神聖な意味を持つ7という数字を持ち出すことによって、ニュートンは自分の認識を正当化しようとしたのではないか、と指摘する。

    *

 言葉がものごとに姿を与えるとすれば、そこには言葉を使う側の世界観が投影される。たしかに、南スーダンで起きたことを「武力衝突」と呼ぶのも、首相夫人を「私人」と強調するのも、共謀罪の対象に「一般市民」は入らないというのも、これらの言葉を使う側の世界観の表れに違いない。

 連続している現実に、実際にはない境目を強調する政治の言葉。そこには指し示されるものごと自体よりも、指し示している政治家の意図の方がよく表れているように見える。
    −−「日曜に想う 政治の言葉と虹の色分け 編集委員・大野博人」、『朝日新聞』2017年03月12日(日)付。

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