覚え書:「文化の扉 歴史編 異説あり 仏教受容めぐる論争 蘇我氏VS.物部氏、実は主導権争い?」、『朝日新聞』2017年04月09日(日)付。

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文化の扉 歴史編 異説あり 仏教受容めぐる論争 蘇我氏VS.物部氏、実は主導権争い?
2017年4月9日



崇仏論争とは<グラフィック・下村佳絵>
 大陸から伝わった仏教を受け入れるかどうかを巡り、反対(排仏)派の物部尾輿(おこし)と、導入(崇仏)派で渡来系の子孫ともいわれる蘇我稲目が争った6世紀の崇仏論争。だが、実際は仏教とは無関係の政争だった可能性が指摘されている。

 いわゆる崇仏論争(崇仏排仏論争)は2段階からなる。

 「日本書紀」によれば、552年、百済の使者から仏教の説明を受けた欽明天皇は「これほど素晴らしい教えを聞いたことはない」と喜び、群臣に「礼拝すべきか」と問うたところ、蘇我稲目は賛成し、物部尾輿は「外国の神を礼拝すれば国神のたたりを招く」と反発した。そこで天皇が稲目に仏像を預けて礼拝させたところ、疫病が流行したため、尾輿は「仏教を受け入れたせいだ」と主張。寺を燃やし、仏像は難波に流し捨てたという。

 第2段階は585年、稲目の息子にあたる馬子は寺院を建立し、仏像を祀(まつ)っていたが、疫病が流行したため、尾輿の息子にあたる守屋が敏達天皇に仏教受容をとりやめるよう進言。馬子の建てた寺に火をつけ、仏像を流し捨てる。用明天皇即位後も両氏は仏教を巡って対立するが、やがて諸豪族を率いた馬子が守屋を討ち滅ぼし、寺院の建立が盛んに行われるようになったという。

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 だが、この話、そのまま受け入れるのは難があるようだ。

 古代史研究者の加藤謙吉さんは、1989年の論文「中央豪族の仏教受容とその史的意義」などで、崇仏論争について疑問を投げかけている。大きな根拠が、排仏派のはずの物部氏の勢力圏内で仏教が広く浸透していたとみられること。その上で、物部氏に関する排仏の記述は後から付加されたものとみる。

 最近では、国学院大兼任講師の有働智奘(ちじょう)さんが論文「蘇我氏物部氏の対立―仏教受容と神祇(じんぎ)信仰」などで、「蘇我氏物部氏の対立の図式には、『排仏』という意識はなかった」との説を提示している。

 有働さんによると、蘇我氏は仏教に信仰を変えたのではなく、「建邦之神」を祭る神祇信仰(神道)の延長上で「仏陀」を祭祀(さいし)していた。その信奉方法について物部氏との間で争いがあったとみられる。仏の住まいを焼いたり仏を流したりした行為も、神がいます世界(国)への帰坐(きざ)を求める、祓(はらえ)のような祭祀だった可能性があるという。

 一方、堺女子短期大教授の水谷千秋さんは「物部氏蘇我氏の間に仏教受容をめぐる論争はあったのだろうが、主因は政治権力闘争だった」と推測する。

物部氏は海外交渉に関わった経験も豊富で外来の宗教にことさら排他的態度をとったとは考えにくい。政権内の主導権を争っていたところに仏教受容がからみ、対立が激化したのでは」

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 一方、蘇我氏が仏教を信奉した理由について、従来は「蘇我氏のルーツは渡来人だから」という説がささやかれてきたが、現在は否定する研究者が多い。

 蘇我氏渡来人説は、古代史学者の門脇禎二さんが唱えた、5世紀の百済官人とされる「木満致」と日本書紀などに出てくる「蘇賀(蘇我)満智」が同一人物だったとみる解釈が根拠。だが、年代に開きがあることや「木」という名族の姓を捨てて改名した理由が説明できないことから、「まったくの推測と言わざるを得ない」と水谷さん。

 では、蘇我氏のルーツはどこにあるのか。「古代豪族はその出身地を姓として名乗る」との大原則に従うなら、最有力候補地は大和国高市郡曽我(奈良県橿原市)だ。この地の曽我遺跡からは、祭祀用とみられる大量の玉などが出土しており、仏教推進派のはずの蘇我氏は神祭りも行っていた可能性が高い。

 他方、日本書紀に、馬子が「葛城県は元は私の本居。そこでその県にちなんだ姓名を名乗っている」と語ったくだりがあることから、蘇我氏は5世紀代に天皇家の姻戚として権勢を誇った葛城氏の末裔(まつえい)、あるいはその葛城氏と形の上での同族関係を結んだ一族だったとみる研究者も増えている。

 水谷さんは「当時の仏教は寺院建築や仏像製作といったものも含めて、先端文明の結晶ともいえる存在であり、蘇我氏が仏教を推進したのも、むしろそれらの導入が目的と考える方が自然ではないか」と話している。

 (編集委員・宮代栄一)

 ■蘇我一族の力示す古墳

 天皇家をしのぐ権勢を誇ったといわれる蘇我氏。彼らの墓はどこにあるのだろう。

 古くから「馬子の墓では」と言われてきたのが、奈良県明日香村の石舞台古墳だ。主体部は77トンもある巨大な天井石で知られる横穴式石室だが、土取りによって現在はむき出しの状態。墳形はわかっていない。

 一方、石舞台古墳から400メートルほど離れた場所にある都塚古墳も、やはり蘇我一族の墓とみる説が有力だ。一辺約40メートルの方墳で、墳丘を階段状に整形した、ピラミッドとも見まごう特異な形状が特色。考古学者の河上邦彦さんのように、石舞台と都塚は蘇我蝦夷(えみし)の築いた「双墓」で、石舞台は蝦夷の墓、都塚は入鹿の墓とする説や、都塚を稲目の墓とみる説などがある。

 <読む> 有働智奘氏の論文は『古代史研究の最前線 日本書紀』(洋泉社)に収められている。水谷千秋氏『謎の豪族 蘇我氏』(文春新書)は蘇我氏と崇仏論争に関してコンパクトにまとめる。遠山美都男氏『蘇我氏と飛鳥』(吉川弘文館)はカラー図版が入った読みやすい入門書だ。
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