日記:日本に欠けていた、「少数者の権利と意見を尊重する一定の伝統」ひいては「各個人が他の個人の意見や行動の自由をある程度尊重する」伝統

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日本の伝統に欠けていたもの
 このような図式が東に対する西の意識の表現であり、そのイデオロギー性はもちろん明らかですが、しかしそれがまったく客観的意味を欠いた虚偽意識であるとは必ずしもいえません。バジョットが指摘しているように、「議論による統治」の伝統に着目して東と西を分けることには、それなりの歴史的根拠があるといってもよいのではないでしょうか。
 欧米における最もすぐれた日本史家の一人であり、その先駆者的存在であったジョージ・サンソムという英国人歴史家がいます。サンソムは、戦前の日本に外交官として三〇年以上の滞日経験をもつ有数の知日家でしたが、戦後の一九五〇年一二月に東京大学で行った「世界史における日本」と第する一連の連続講義の中で、ヨーロッパ(特に英国)と日本を比較し、一六〇〇年以降、主として両者の政治的発展に分岐を生じさせた要因が何であったかについて述べています(『世界史における日本』大窪愿二訳、岩波新書、一九五一年、G.B.Sansom,Japan in World History,edited,with notes,by Chuji Miyashita,Kenkyuusha,Tokyo,1965)。サンソムはそれを「自由主義的伝統」(liberal tradition)の有無、とくに議会の発達が作り出した「少数者の権利と意見を尊重する一定の伝統」ひいては「各個人が他の個人の意見や行動の自由をある程度尊重する」伝統の有無に帰着させました。それはバジョットによれば、ヨーロッパの「前近代」が有した「議論による統治」の伝統です。サンソムはそれによって「封建制度から中央集権的王政に、中央集権的王政から議会政治への変遷が英国の政治生活に起こった」と説明しています。一六世紀から一八世紀にかけて、このような政治的発展は英国のみならず、オランダやフランスのようなヨーロッパ諸国でも進んだのですが、それは同時代の日本には見られなかったのです。
 このことはサンソムによれば、当時の日本人に政治能力や政治思想が欠けていたからではありません。逆にサンソムは当時の日本人の秩序形成能力や政治についての深い哲学的関心を高く評価しています。行政技術において日本人は他国民に卓越していましたし、政治哲学の探求においても同様でした。「徳川将軍時代の日本の政治はどこから見ても秩序と規律の奇蹟であって、たまたまそれを目撃した少数の外国人から多くの賞讃を博した」とサンソムは述べています。たしかに徳川支配体制の政治は過酷な面をもっていましたが、それは同時代の英国の政治についても同様であったとサンソムは見るのです。
 しかし、日英の政治には決定的なちがいがありました。英国には自由主義的伝統、とくにその主要な要素である「個人の尊重」の伝統が影響力をもっていたのに対し、日本にはそれはたしかになかったのです。それは、英国が国王権力の維持のために、「議論による統治」の要素を導入する必要があったのに対し、日本の場合には将軍権力の維持のために、そのような手段に訴える必要はなかったことによるところが大きいでしょう。英国の国王権力はさまざまの対抗勢力との緊張関係の中にあり、それらに対する財政上の依存度も大きく、権力を維持するためには、それらの対抗勢力に対する自由、場合によっては個人の自由の付与を代償として、それらとの取引と妥協を可能にする議会政治を回避することができなかったのです。それに対して、将軍権力は幕末の開国期にいたって政策決定過程への「衆議」の導入による何らかの体制変革の必要を認めるにいたるまで、「議論による統治」の発想は芽生えることはありませんでした。
 要するに、英国の宗教勢力のような有力な対抗勢力をもたなかった日本の中央集権的支配と、宗教勢力を含む有力な対抗勢力からの不断の挑戦にさらされた英国の中央集権的支配との強度差が、それぞれの「前近代」から「近代」への政治的発展に質的な差異をもたらしたと考えられるのです。
    −−三谷太一郎『日本の近代とは何であったか 問題史的考察』岩波新書、2017年、16−19頁。

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