覚え書:「憲法を考える 施行70年 たどる、制定の原点」、『朝日新聞』2017年05月03日(水)付。

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憲法を考える 施行70年 たどる、制定の原点
2017年5月3日

日本国憲法の制定過程
 国民主権戦争放棄をうたう日本国憲法の施行から70年。天皇主権を掲げた明治憲法から百八十度の大転換を果たす過程で何が起こり、どんな議論があったのか。日本側関係者の動きに焦点をあて、振り返る。

 (編集委員・豊秀一)

 

 ■憲法改正天皇の指示 必要性、いち早く認識か

 いち早く動いたのは、昭和天皇だった。

 1945年9月4日、戦後初となる帝国議会の開院式での勅語で「平和国家確立」に言及し、戦後日本の目標を示した。

 昭和天皇実録によると、9月21日、天皇は側近の内大臣木戸幸一と面会。木戸はそのあとすぐ内大臣秘書官長、松平康昌に憲法改正問題の調査を依頼した。さらに10月11日、天皇は、内大臣府御用掛となる近衛文麿に直接、ポツダム宣言受諾に伴って憲法改正が必要かどうか、必要ならばどの範囲を変えるか、調査を命じた。

 明治憲法の下で改憲を発議できるのは天皇のみ。天皇による憲法改正プロジェクトが始まった。

 連合国軍総司令部(GHQ)による憲法改正の動きも急だった。

 ポツダム宣言軍国主義を徹底的に取り除くことや、民主主義的な傾向の復活・強化などを盛り込んでいた。最高司令官マッカーサーは10月4日、近衛に憲法改正を示唆。8日、マッカーサーの政治顧問アチソンが近衛に、天皇の権限の削減や人権保障、国民投票による憲法改正手続きなど12項目の改正点を伝えた。この日の午後、近衛は木戸を訪ね、アチソンとの会談の内容を報告した。

 9日、幣原喜重郎内閣が誕生。マッカーサーは11日、あいさつに訪れた幣原に憲法の改正を示唆した。13日、政府の憲法問題調査委員会(委員長・松本烝治、以下松本委員会)の発足が決まった。

 憲法草案作りは(1)天皇マッカーサーから指示を受けた近衛(2)政府の松本委員会の、二つのルートで進められることになった。

 ところが、近衛にとって予想外のことが起きる。

 国内からは、東久邇宮稔彦内閣の総辞職で閣外に去った近衛が憲法改正案を起草することについて批判の声が上がった。米国からも、近衛が日中戦争開戦時の首相だったことなどを理由に、戦争指導者が憲法改正の作業を進めることを問題視する向きが出てきた。

 GHQは11月1日、内閣の一員でなくなった近衛について「憲法改正の問題に何の関係もない」とする声明を発表。しかし天皇は、近衛の案を待ち続けた。

 実録によれば、天皇は22日午後、1時間にわたり近衛から案の説明を受けた。アチソンが近衛に伝えた内容に沿ったもので、軍の規定についても「削除か修正を考える必要がある」と指摘、自由主義的な色合いの濃いものだった。

 近衛案は26日、天皇から幣原に渡されたが、顧みられることはなかった。そして、GHQから逮捕命令が伝えられた近衛は12月16日未明、服毒自殺した。

 天皇による憲法改正の調査について、木戸は手記で「終戦後の世論の動きから見て、憲法をこのままにしておくことができないことは明らかだった」とし、天皇自身が憲法改正の範囲などを研究していたという実績を残しておきたかった、と振り返っている。

 高見勝利・上智大名誉教授は「天皇ポツダム宣言の受諾で憲法の大幅改正が必要になると早くから認識していたのだろう」と話す。

 

 ■軍規定の全面削除 自衛権、すでに論争の芽

 松本委員会は、明治憲法を抜本的に改革する発想を持つことはできなかった。しかし、軍隊をめぐっては全面削除の是非が議論され、その後の自衛権論争の端緒が見えてくる。当時、法制局次長として委員会に参加した入江俊郎の著書「憲法成立の経緯と憲法上の諸問題」によると——。

 46年1月26日、松本委員会の調査会。軍の規定を残した小幅な改正案「憲法改正要綱」(甲案)と、軍の規定を削ったより広い改正案「憲法改正案」(乙案)が比較検討された。軍の規定をめぐり、松本は、幣原が「削除してはどうか」と明言したことを紹介しつつも、「(自分は)若干の字句の修正をして残したい」と発言した。

 30日の閣議では、具体的に条文となった憲法改正案を戦後初めて議論することになり、こんなやりとりがあった。

 幣原「軍の規定を憲法に置くと連合国は面倒なことを言うに決まっている」

 法制局長官石黒武重「削除しても、将来憲法を改正しなくても軍は置ける」

 厚生相芦田均天皇が軍を統帥するとなっているが、国民の代表に服するのがデモクラシー。天皇服従する規定はいかがか」

 法相岩田宙造「今日の政治情勢からは削った方がよい」

 外相吉田茂「ホイットニー(民政局長)と打ち合わせをし、相手の意向を確かめてはどうか」

 石黒の主張からは「自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、禁止されているわけではない」とする内閣法制局の解釈の原型がうかがえる。

 2月2日の松本委員会の総会でも議論は続いた。内閣書記官長楢橋渡が「軍の統帥に関する規定は削ることに賛成」とする旧軍幹部の意見を紹介し、「警備隊のようなものが作られても、軍ではないし、憲法で決めなくてもいい」と発言。松本は「独立国たる以上、軍がないということは考えられない」。憲法学者宮沢俊義は「平和国家という大方針を掲げる以外、日本には道はない。残しておいてもどうせ形式的なので、つつかれるだけなら置かないほうがいい」と削除を主張した。

 激しい議論が続く中、幣原とマッカーサーが1月24日に会談する。

 この席で幣原から新憲法に「戦争放棄条項」を設けることを含め、日本は軍事機構は一切持たないことを決めたいという提案があった——。「マッカーサー回想記」などにそう記されていることから、9条発案者=幣原説がある。これに対し、2月21日の対談で、幣原がマッカーサーからの戦争放棄の提案に消極的な発言をしたことなどを理由とする反論もあり、9条の発案者が誰かをめぐる論争は決着していない。

 

 ■平和国家の誕生 天皇は「象徴」、GHQ案の衝撃

 46年2月8日、松本は明治憲法の微調整に過ぎない「憲法改正要綱」をGHQに提出した。ただ、その1週間前に毎日新聞が委員会の試案をスクープ。「あまりに保守的」として、GHQは自ら憲法草案の起草を始めていた。

 2月13日、外務大臣官邸。GHQ民政局長のホイットニーは、松本や吉田らに要綱の拒否を伝え、GHQが作成した草案を手渡した。「皇帝は国家の象徴にして……其(そ)の地位を人民の主権意思より承(う)け」「国民の一主権としての戦争は之(これ)を廃止す」。日本側がとりわけ驚いたのは、「統治権の総攬(そうらん)者」である天皇が「象徴」になったことだった。

 松本は翻意を促そうとしたがかなわず、19日に経過を閣議で報告。「とうてい受諾できない」などと驚きが走った。極めて重大な事態だとして、幣原が21日にマッカーサーを訪ねる。入江の記録では、マッカーサーはこう発言した。

 「これで天皇の地位も確保できるし、主権在民戦争放棄は交付案の眼目。特に戦争放棄は日本が将来世界における道徳的指導者となる規定だ」

 翌22日午前の閣議で幣原がマッカーサーとのやりとりを報告した。象徴天皇戦争放棄以外で妥協の余地を見いだすほかやむを得ないと大筋で一致。午後に幣原が天皇に報告した。草案を持参し、1時間以上にわたって経緯を伝え、天皇は「これでいいじゃないか」と了承した。

 草案に沿って政府案の作成作業が進められ、3月4日から5日までGHQとの徹夜の協議で確定。政府は6日、「憲法改正草案要綱」として発表した。

 6月20日に帝国議会が開会。衆議院では9条2項に「前項の目的を達するため」という文言を挿入、生存権の規定を追加するなどの修正が加わった。貴族院では文民統制条項などが入った。

 11月3日、日本国憲法が公布された。天皇勅語で述べた。「朕(ちん)は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ」

 (敬称略)
    −−「憲法を考える 施行70年 たどる、制定の原点」、『朝日新聞』2017年05月03日(水)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12920963.html



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