日記:公明党支援をある種の信仰の如く錯覚した創価学会員のfbやtwitterを覗いてみたら、案の定、民進党・有田議員を批判するために、高須克弥氏の所論をヨイショしている。

ひょっとしたらと思って、公明党支援をある種の信仰の如く錯覚した創価学会員のfbやtwitterを覗いてみたら、案の定、民進党・有田議員を批判するために、高須克弥氏の所論をヨイショしている。民進党民進党議員を批判するのは自由だが、その延長線上で高須克弥氏を持ち上げて大丈夫かしらん。

政党批判は自由だと思うが、その政党批判そのものが、普遍的道理やその宗教的真理や良心を否定することになるような暴論に加担することは、選択すべき政党批判の議論ではないだろう。とにかく民進党共産党「憎し」で蠢動する創価学会員の軽挙妄動というか、箍の外れっぷりには驚きを隠せない。

政党同士が政策批判という意味で切磋琢磨することを政党批判と呼ぶ現象は推奨されてしかるべきである。しかし、政党ではなく、信仰者が、切磋琢磨することの政党批判ではなく、考え方の違う相手に対して、政党批判を超え、端的にいうと現代用語でいう「disる」ためには、何でも動員してしまう現象を前にすると、いかがなものかと戦慄してしまう。

信仰者に求められていることは、そしてその信仰が「世界宗教」であると自認するのであるとすれば、それは、その信仰者が支援している政党と対峙する政党を、切磋琢磨することの政党批判を超えた過剰なdisりに明け暮れることではなく、信仰という「預言者」の立場から、権力批判をすることなのではないか。

必要の全くない弱者批判をして権力の補完構造に組み込まれていくことを、現代批判と錯覚した現象と似通ったかのような錯覚だが、こういう勘違いが拡大していくことに、ただただ恐怖を憶える。

「権力批判のできない宗教は宗教ではない」という若人の叫びを想起したが、これは至言である。


ナチス礼賛発言の高須克弥院長が批判ツイートにまた「訴訟」恫喝! 有田芳生を「しばき隊の指導者」とデマ攻撃も|LITERA/リテラ


Resize6420