日記:「良いお年を」ということに関して


晦日の夕刻、職場で同僚と「良いお年を」と言い交わして家路につく。明日も仕事なので、また顔を合わす相手だから、その「社交辞令」を内心では「今さら」などと苦笑いしながらも、そう言えば大晦日に「良いお年を」と言い交わした「その後」、果たして「良いお年」になったのかどうか、ふと考えてみた。

ここ数年、「良いお年を」と願っていても、私達の生きている生活世界はちっとも「良いお年」にはなっていない。政治・経済だけでなく文化やライフスタイル、娯楽に到るまで−−、どちらかといえば、ますます混迷を深めている感が強い。有り体に言えば悪くなっている。

昔は良かったというような感覚でノスタルジジイの床屋談義をしようとは思わないが、それでも冷戦崩壊後から数年間というのは、まあ、問題がなかった訳ではないけれども、それでも、人類はその歴史的な悪性を反省して前に進んでいるなあという、どちらかといえば「良いお年」が続いてきたというのが、来し方のふりかえりである。

端的に言えば、明るい兆しが有り、21世紀は、人類が経験してきたこれまでよりも、少しだけは「マシ」な世の中になるだろうと。

しかし、21世紀を挟む数年来からこの方、どちらかと言えば悪くなっている。なぜなんだろう。それは、「明るい兆し」にただ、喜んでいたことが一つの理由ではないかと考えている。つまり、自分自身が積極的にコミットメント、アタッチメントしてこなかったせいではないかと。

日本の政界は、戦前回帰の右派勢力にあっけなく乗っ取られた。誰かが一生懸命準備した「明るい兆し」に私が喜んでいる間にも、彼らは必死に毎日活動していた訳だ。まあ、あっけなく乗っ取られてしまうのは必然であろう。

人類がその「歴史的な悪性を反省して前に進む」ためには、ただ「明るい兆し」とかに喜びを覚えていただけではダメなのではないか。その面倒な大切な手続きをスルーしてきたことを反省しながら、世界に関わっていくほか無い。本年も引き続き文闘の一年でありたいと深く決意する。




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