日記:物語が見せてくれる希望の光 断ち切る文化と、手をつなぐ文化


        • -

 文化は、意図せずとも、「あなたがた」と「私たち」が異なることを、とてもよく見せてしまいます。
 ああ、世界はなんと、「分断」に満ちていることでしょう! 今、私が通訳を必要としているように、言葉も価値観も宗教もちがう人びとが世界を満たしています。
 私たちは、しかし、分断されたままではありません。どれほど異なっていても、わかりあえる、ということを、それも、感情からわかりあえる、ということを示してくれるものが、身近にあります。それが、物語です。物語の中で、私たちは主人公に同化し、主人公の人生を生き、主人公になって無き、笑い、苦悩します。
 日本人の私が、ローマ時代に生きたケルト人奴隷の人生を生きることができるのです。イギリス人の書いた物語の中で、日本人の私が生きられるのです。これは、すごいことだと思いませんか? 物語という優れた装置を借りさえすれば、私たちは、異文化を飛びこえるどころか、人間以外のものにすら「成れる」のです。私が書いた物語には、きっと、エキゾチックな日本的な価値観が滲みでているのでしょうが、それでも、英語で、スペイン語で、中国語で、韓国語で、私が書いた物語を読んだ人びとが、おもしろい! と思ってくださる。(そうだとよいのですけど、まあ、ともかく、)私の頭の中から生まれた異世界の主人公になりきって生き、泣き、笑ってくれる。それを感じるとき、私は明るい光をみたような気持ちになるのです。
 世界は多様性に満ちています。多様性は私たちを豊かにし、新しい視点で世の中を見る目を与えてくれます。多様性は決して、わかりあえぬ壁にへだてられた硬い牢獄の連なりではありません。多様な文化のもとに生まれ育った人びとが紡ぐ多様な物語を、世界中の誰もが楽しむことができる−−物語を共有できる−−そのことこそ、私たちがわかりあえるということの、何よりの証拠でしょう。
 私は、実際にいる民族を描かず、私が創造した人びとを描いてきました。それは、読者に、一度、自由になってほしいからです。自分から−−自分を捕らえている文化や立場から−−飛び離れてもらいたいのです。まったくちがう立場の中を自由に生きてほしい。そして、物語を読みおわったとき、感じとってほしいのです。
 自分がたとえ日本人でなくても、アボリジニでなくても、マオリでなくても、私たちはみな自分の文化の枠から自由になることができない、とても不自由な生き物であるのだということを。それでも、私たちは、その不自由さの中から、想像をする力を使って手を伸ばしあい、手をつなぐこともできるのだと感じてほしいのです。
 私は、空想の物語の中で、非常にシビアな分断を描きます。分断を越えることの難しさと、それを越えたいと願う夢を、我が事として感じてもらえるように。物語には、そういう力がある。他者に成ることができる物語のちからこそ、人という「想像力」を持つ生き物が、分断と憎しみの海を泳ぎわたって生きぬいてこられた秘訣なのかもしれません。人という生き物は言語という文化を生みだしました。他者に自分の思いを伝える力を持つ言語が異なること、学ばないかぎり異言語は理解できないことは、人と人との間を引き裂く分断の、最もわかりやし指標です。
 しかし、この言語という道具を用いて、人はやがて物語を生みだし、本を生みだし、顔を見ることすらかなわぬ、遠いところで暮らしている人びとにも、あるいは、物語を生みだした人がこの世を去った後に、生まれてくる未来の人びとにも、時さえ越えて、人という生き物の喜怒哀楽を生みだしていく源は、文化がちがおうが、生まれた時代がちがおうが、いかに「同じ」であるかを伝える力を手にしたのです。
 文化は、片手には剣を持っています。差異を見せつける分断の道具である剣を。しかし、もう一方の手は、他者に向けて伸ばし、手をつなぐための温かい手です。異なる人びと同士が、わかりあおうと伸ばす手なのです。
 そして、物語を書くとき、読むとき、私たちは、結びあった手の温もりを、感じることができるのです。IBBY(国際児童図書評議会ニュージーランド大会 二〇一六年八月。

    −−上橋菜穂子「物語が見せてくれる希望の光 断ち切る文化と、手をつなぐ文化」、上橋菜穂子『物語と歩いてきた道 インタビュー・スピーチ&エッセイ集』偕成社、2017年、135−139頁。

        • -

Resize8868