日記:わたしたちの知性は、この経験という唯一の領域に閉じこめられてはいない。



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 人間の知性が、感性によって与えられた感覚的な生の素材に働きかけて作り出した第一の産物が、経験と呼ばれるものであることは、疑問の余地のないほど明らかなことである。だから経験こそが、わたしたちに何かを教えてくれる最初のものである。わたしたちは経験しつづけることによって、新しいことをかぎりなく学ぶのである。だからこれから生まれてくる世代の人々の連綿とつづく生活において、この経験という土壌のもとで集められる知識に事欠くことはないだろう。
 しかしわたしたちの知性は、この経験という唯一の領域に閉じこめられてはいない。たしかに経験はわたしたちに、そこに何が存在するかを教えてくれるが、それが必然的に存在しなければならないことは教えてくれないし、ほかのありかたではなく、まさにそのように存在しなければならない理由も、教えてはくれないのである。だから経験はわたしたちに、真の意味で普遍的なものを与えてくれることはない。そして人間の理性は、こうした普遍的な認識の方法を強く希求するものであるから、経験によって満足することはなく、むしろ経験によって刺激されるのである。
 このような普遍的な認識というものは、同時に内的な必然性という性格をそなえているものであり、経験に依存せずに、それだけで明晰で確実なものでなければならない。だからこうした認識は、アプリオリな認識と呼ばれる。これとは反対に、経験だけから借用される認識は、一般に呼ばれているように、アポステオリにのみ認識されるとか、経験的にのみ認識されるというのである。
    −−カント(中山元訳)『純粋理性批判 1』光文社古典新訳文庫、2010年、221−222頁。

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