日記:匿名性と名前との関係のもとに人々が見出しているのは、個人と真理、あるいは個人と美という昔からの古典的な問題が転位されたものなのではないか


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 −−わたしは現在、匿名性と名前との関係のもとに人々が見出しているのは、個人と真理、あるいは個人と美という昔からの古典的な問題が転位されたものなのではないか、と考えています。ある時に生まれた、これこれの歴史とこれこれの表情を持った一人の個人が、一人だけで、そして最初に、かくかくしかじかの真理を、あるいは真理そのものというものを、発見するなどということがどうやったら起こるのでしょうか。デカルトの『省察』が答えようとするのは、この問いに大してなのです。すなわち、いかにして、わたしたが、真理を発見することができるのか? そしてもっとずっとあとになると、才能というロマン派的な主題において、この問いは再登場します。いかにして、歴史の襞に住まう個人が、一つの時代、一つの文明における、あらゆる真理が表現されるような美の処刑式を発見することができるのか? こんにちでは、問題はこんなふうには提示されません。わたしたちはもはや真理のなかにいるのではなくて、諸々の言説の一貫性のなかにいるのです。美というもののなかではなくて、諸形式の複雑な関係性の中にいるのです。いま、問題となるのは、諸言説の一貫性や諸形式の無限のネットワークに統合されることで、名前と、そして名前がある一時点まで、ある一定の期間、ある人の目には印となっていた個体性とを、消去してしまう、あるいは少なくとも空虚で無用なものにしてまうような一つの要素、あるいは要素の集合のささえに、一個人、一つの名前は、どうしたらなりえるのか、ということです。
    −−フーコー石田英敬訳)「歴史の書き方について」、小林康夫ほか訳『フーコー・コレクション3 言説・表象』ちくま学芸文庫、2006年、100−101頁。

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