覚え書:「文化の扉 熊楠、知るほどすごい 博物学・宇宙観・エコロジー…膨大な資料」、『朝日新聞』2017年10月01日(日)付。


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文化の扉 熊楠、知るほどすごい 博物学・宇宙観・エコロジー…膨大な資料
2017年10月1日

グラフィック・山中位行
写真・図版
 粘菌研究をはじめとする生物学や民俗学、人類学など幅広い分野に多大の業績を残し、「知の巨人」と称される博物学者・南方熊楠(みなかたくまぐす)。今年、生誕150年を迎えた。近年、資料の整理・調査が進み、徐々にその実像が見えてきつつある。

 熊楠は幼少期から漢籍に親しみ、江戸時代の百科事典「和漢三才図会」などの書写を始め、17歳で東京の大学予備門へ。しかし、型通りの教育を嫌い渡米、フロリダやキューバにまで足を延ばし、菌類の採集に没頭。さらに英国に渡り、大英博物館の閲覧室で幅広い分野の書籍を読みあさり筆写した。英国の科学誌「ネイチャー」や民俗学雑誌「ノーツ・アンド・クエリーズ」に多くの論文を発表し、注目を集めた。

 14年近くの在外生活を経て33歳で帰国後は、和歌山・熊野の森をフィールドに研究に打ち込んだ。

 「熊楠は漢文の教養に裏打ちされた東アジアの伝統的な文明のものの見方と、英独仏伊など数カ国語を習得して得た近代西洋文明のものの見方の両方を複眼的に駆使できた特権的な人物」。松居竜五龍谷大教授(53)はそう評する。

 が、そんな熊楠も、後半生を過ごした和歌山県田辺市など地元では奇人変人として語られることが多く、長らく本格的な学問的検証は進まなかった。

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 1965年に親族や有志によって遺稿や標本などを収蔵・展示する南方熊楠記念館が南紀白浜に開館。90年代には松居さんら研究者たちによって、田辺市の熊楠旧邸に残る2万5千点以上の蔵書や書簡、標本などの組織的調査が始まる。2004年と05年に資料目録を刊行、06年には研究拠点として旧邸隣に南方熊楠顕彰館が開館し、基礎研究の環境が整った。「熊楠の全体像が徐々に見えてくるようになった」と松居さん。

 熊楠が滞英中に作り、その後の研究のよりどころとした52冊1万ページにも及ぶ「ロンドン抜書(ぬきがき)」と呼ばれる筆写ノートの解読も進む。

 熊楠が様々に交錯する多数の曲線で宇宙観を描いた「南方マンダラ」と呼ばれる図像も議論の的だ。松居さんは「この世界は無数の因果律が相互に干渉しながら成り立っており、すべての現象は関連し合い、予想もつかない結果を生み出すということを表している」といい、現代科学でいう複雑系のようなモデルを提示したと解する。

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 40代になった熊楠は、神社を1町村1社に統合して鎮守の森の木々を払い下げる政府の神社合祀(ごうし)政策に反対する運動に邁進(まいしん)する。森の伐採は民衆の道徳心を損じ、文化を滅ぼすと新聞などで自然保護の論陣を張った。

 当時の和歌山県知事あての手紙に「千百年来斧斤(ふきん)を入れざりし神林は、諸草木相互の関係甚(はなは)だ密接錯雑致し、近頃は『エコロギー』と申し、此(この)相互の関係を研究する特種専門の学問さえ出来(いできた)り居る事に御座候(ござそうろう)」と記す。

 龍谷大世界仏教文化研究センター博士研究員の唐澤太輔さん(39)は「熊楠は日本でエコロジーという語を用いた最初期の人。すでに100年以上前に自然と人間のつながりの重要性を意識し行動していた。南方マンダラには生態学へつながる思想の萌芽が見られる」と話す。

 生誕150年を迎え、東京の国立科学博物館で12月19日から来年3月4日まで企画展が催されるなど記念事業が相次ぐ。松居さんは語る。「最近は海外の熊楠への関心も高く、研究は国際化している。残された膨大な資料の解読も終わっていない。100年、200年かけて研究する価値がある」

 (池田洋一郎)

 ■触発され「熊野物語」 作家・中上紀(のり)さん

 熊野の地に関わって創作を続ける私にとり、南方熊楠は大きな存在です。亡父の中上健次も常に熊楠を意識していました。和歌山県那智勝浦町にある健次の仕事場のマンションの本棚には熊楠コーナーがあり、全集や研究書がずらっと並んでいました。小さい頃から時々取り出しては、「十二支考」などの著作をわからないながらも読んでいました。

 熊野で熊楠の足跡をたどる旅を何度かしたことがあります。彼が神社合祀に反対した際、保護に尽力した神社の森に行くと、神々しさをすごく感じた。彼の思いが引き継がれて、04年の「紀伊山地霊場と参詣(さんけい)道」の世界遺産登録につながったのかもしれません。

 熊楠のゆかりの地を訪ねたり、著作を読んだりすると、多くのインスピレーションを受けます。私の作品「熊野物語」もそうして生まれました。小説の中に熊楠のような人物を登場させたりもしています。

 小さな菌類から大宇宙の摂理まで、熊楠の魂は一瞬で飛んでいく。まさに子供の頃のあだ名の天狗(てんぐ)そのものですね。

 <読む> 松居さんの『南方熊楠 複眼の学問構想』(慶応義塾大学出版会)は最新研究を記す。中沢新一編『南方熊楠コレクション』全5巻(河出文庫)、『南方熊楠英文論考[ネイチャー]誌篇』『同[ノーツアンドクエリーズ]誌篇』(共に集英社)で熊楠作品が読める。

 ◆来週の「文化の扉」は休みます。次回掲載は10月15日です。
    −−「文化の扉 熊楠、知るほどすごい 博物学・宇宙観・エコロジー…膨大な資料」、『朝日新聞』2017年10月01日(日)付。

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(文化の扉)熊楠、知るほどすごい 博物学・宇宙観・エコロジー…膨大な資料:朝日新聞デジタル