日記:アーレントなにそれ美味しいの?

私の場合、これまで学問の世界でも、生活の世界でもほとんど同じ「言葉」を使っていて、それがひとつの矜持、ないしは私の個性になっていたと思う。しかし、最近、日常生活の中では、自由や平等、人権のような、例えば学問で使うような概念を、なるべくそのままではない言葉で使うように工夫している。

「自由は大事だ」「平等は大事だ」「人権は大切だ」といったところで暖簾に腕押しで、端的に言えば、「わかっているからガタガタ抜かすな!」で話がクローズしてしまうか、それとも、「アーレントなにそれ美味しいの?」って感覚で「おまえ、現実みろよ」というのが実際の生活世界なんですわ。

しかしそこへ入り込まないといけないということを、そういうことを痛感している。

勿論、専門研究的なフィールドでは一歩も譲ってはいけないし、近頃はやりの本来の意味を換骨奪胎していくエセ・インテリジェンスに対しては徹底的に対峙していかなければならないのだけれど、専門研究的な叡智を、(平易とイコールではないけど)自分の言葉で翻訳していかなければならないのだなあと。

山浦玄嗣先生のケセン語訳聖書ってあるじゃないですか。

それとイコールではないのですが、人間の自由や平等、個の尊厳等などを、基本的人権みたいなテンプレートで語っても限界があるなあ、という反省です。そこからもう一度、自分で言葉を翻訳しながら挑戦していかなければならないという話なんです。

もう、この時点で、「偉そうにいうな」って話で、そういう試行錯誤を最近は続けております。

ただ、Народничествоみたいになっちゃうとそれはだめな訳なんですけど、それでも知識人としての自分の責任は責任として果たしながら、生活者としての誠実に生きていくというところにウェイトを置いていきたいというのが、讃岐流罪ちうの私の格闘です。


ハンナ・アーレント なにそれ美味しいの?
ってことになれば、

めちゃ美味しいですよ、◇◇◇〜。の◇◇◇を自分の言葉でつくらないといけないですね。




最後に蛇足ですが、ただ、もう、これは生活習慣病のようなものなのだけれども、私の場合、パロールパロールではなく、エクリチュールパロールしてしまうというところですかね。しかし、これはもう治しようがない。細君や子どもとの私的な会話も、会社でのやりとりもそうなんで、まあ、それは僕の個性ということで許してもらうほかない。