日記:俺は、案外、俺のために生きているわけではないのかもしれない


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 ところで、グレーバーが指摘しているように、人間生活のすべてを自己利益の追求として説明しうるとする考え方は、人類史的な時間の中ではずいぶん新しい考え方なのです。
 経済学の基本であり、政治学においても広く認知されている「合理的選択論」、つまり、人間とはあらゆる場面で、最小のコストで、最大の効用を求める利己的な存在であるという考え方も、ずいぶん新しい理論であり、政治の分野でこの理論が強調されたのは一九五〇年代以降、経済分野においては、もっと新しいかもしれません。アダム・スミス再評価の流れの中で、出てきた考え方ではないかと思います。スミスは、「自己利益によって人間は動く」と書いていましたからね。
 しかし、わたしの経験から導かれた結論は、そうしたものとはおよそかけ離れたものだったのです。
 それは、簡単に言えば、こんなことです。
 「俺は、案外、俺のために生きているわけではないのかもしれない」
 「誰もが、自分が大事と思っている」と、思っているかもしれませんが、このこと自体が、ホッブズ以来の資本主義的な社会が生み出した、人類史的にみれば比較的新しい、偏見なのかもしれないと、疑ってみる必要があると思ったのです。
 実際問題として、現実の生活の中では、自分のことは二の次にして、親や子どものために、身を粉にしている人々をわたしたちは見ているわけです。肉親だけではありません。他者のために、全財産をなげうつような奇特な人間がいるという事例も、たくさん見てきています。
 かれらは、なぜそんなことができるのでしょうか。
 「困ったときは相身互い」だから?
 そういう面もあるでしょう。「相互扶助」ですね。
 わたしは、ちょっと違う考え方を採用しています。それは、私たちの遺伝子の中には、自分だけが生き残ろうとする遺伝子と、自分たちの種を存続させなければならないという遺伝子の両方が存在していて、あるときには利己的になり、あるときには利他的な行動になるが、本人はなぜそんなことをしているのか、本当はよくわからない。別に科学的な根拠があるわけでもないのですが、わたしはそんなふうに考えています。
    −−平川克美『21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学』ミシマ社、2018年、48−50頁。

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