覚え書:「社説:読書週間 大震災後に思う本の力」、『毎日新聞』2011年11月4日(金)付。





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社説:読書週間 大震災後に思う本の力

 本の大切さを改めて考えるきっかけにしたい読書週間(11月9日まで)だが、大震災後の今年はいつも以上にその思いが強い。書物の力を求める人が多いのではないだろうか。
 現在の読書週間は1947年にスタートした。終戦後、読書の力で平和な文化国家を建設しようという思いからだった。ただ、この運動には、関東大震災で大量の出版物が失われた翌年の1924年、図書文化の普及をめざして運動が展開されたという前史がある。私たちには、災害や戦争で大きな被害を受けるたびに、心の復興のために読書を大切にしてきた歴史があるのだ。
 毎日新聞による第65回読書世論調査では、東日本大震災をきっかけに本を読むことが「より大切に思うようになった」人が約2割もいた。震災や豪雨で自分や家族が被災した人に限ると3割近くになった。
 理由として挙げられたのは、「事実を知る情報源になる」が最多で、「人生や物事を深く考えるきっかけになる」が次に多く、「心の支えになる」も少なくなかった。詳しく知ること、生きる指針を得ること、喪失感を埋めることに、本が期待されていることがわかる結果になった。
 被災地へ本を送る活動も各地で展開されている。毎日新聞大阪国際児童文学館などと取り組む「いっしょだよ」キャンペーンもその一つ。これまでに75の保育園や幼稚園、小中学校に約4000冊を贈呈した。
 出版社などで構成する<大震災>出版対策本部も精力的に被災3県(岩手、宮城、福島)への図書寄贈プロジェクトを実行している。夏休み前の7月には1000円分の図書カード約13万2500枚を小学生たちに贈った。子供たちからのお礼の手紙が事務局に寄せられている。書名を挙げながら、「夏休みの楽しい思い出がふえた」「本がどれだけ大切なものかわかってきました」と、震災後の不安に負けず、感謝を記す文面が感動的だ。 本をめぐる状況は揺れ動いている。一つは電子書籍の市場が広がりつつあることだ。特に世界最大の電子書店、アマゾン・ドット・コムの日本進出が話題を呼んでいる。現在は価格などを出版社と交渉中だ。出版の多様性が失われないことを望みたい。
 全国の書店数が減少しているのも気になる。出版社「アルメディア」の調査では、01年に約2万1000店だったのが今年5月では約1万5000店になった。街の本屋さんは、子供たちが本に出会う場所だ。世論調査でも、「身近な小さな書店もあってほしい」と願う声は多い。読書の喜びを広げる小さな文化センターのようなものとして、活性化できないだろうか。
    −−「社説:読書週間 大震災後に思う本の力」、『毎日新聞』2011年11月4日(金)付。

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⇒ ココログ版 覚え書:「社説:読書週間 大震災後に思う本の力」、『毎日新聞』2011年11月4日(金)付。: Essais d'herméneutique


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存在しないものも存在するかのように思い込みがち





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 人に差別があるかのように世間で言われているのは、人間が勝手に言葉で規定しただけであると、釈尊は『スッタニパータ』で次のように言っている。

 身体を有する〔異なる生き〕ものの間ではそれぞれ区別があるが、人間〔同士〕の間ではこれ(区別)は存在しない。名称(言葉)によって、人間の間で差別が〔存在すると〕説かれるのみである。(一一八頁)。

 私たちは、言葉によって逆規定されて、存在しないものも存在するかのように思い込みがちであるが、釈尊は人間における差別が言葉による逆規定によるものであって、人間には本来、差別はいと断言している。
 仏教では「有」(bhava 存在)を種々に分析しているが、その中に「名有」というものがある。「名有」とは、「兎の角」を意味するシャシャ・ヴィシャーナ(sasa-visana)や、「亀の毛」を意味するクールマ・ローマ(kurma-roma)のように言葉(名)のみが存在していて、現実には存在しないもののことである。ところが、われわれは言葉によって、いかにもそれが存在するかのように錯覚してしまう。それを身近な例で教えたのが「兎角亀毛」であった。
 ここで言う、「人間の間の差別」というのも、「兎角亀毛」と同様、言葉によって存在するかのように思い込まされているのであり、そんなものは本来、存在しないのであると述べている。ここの人間(パーリ語 manussa)を、デンマークパーリ語学者V・ファウスベルはmenと英訳しているが、それでは女性(women)が排除されているかのごとき誤解を与えかねないので、human beings(人間)と訳した方が無難であろう。manussaは、itthi(婦人)、あるいはpurisa(男)という語と複合語を作り、それぞれ「女の人」(manussa-itthi)、「男の人」(manussa-purisa)という意味になる。従って、manussaだけでは、男女を区別しない「人間」を意味しているのである。
    −−植木雅俊『仏教 本当の教え』中公新書、2011年、18−19頁。

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しらないうちに僕たちは「言葉(名)のみが存在していて、現実には存在しないもの」を現実に存在「せしめて」いるんじゃアないだろうか。


それは権力理論に適応したフーコーMichel Foucault,1926−1984)は、社会の位置づけに応じた身体を訓練(=ディシプリン)によって形成してゆく陥穽を鋭く突いた。

根拠ではなく、言葉によって分断され、それが習慣によって「実体」化させられてしまった構造を温存させていく「生−権力」(bio-pouvir)。

知らないうちに拘泥して生きているのが人間の実情なんだろうけど、それは臨床観察者が記述すれば「妄想癖」って話しになるんだろうな((((;゚Д゚)))))))

虚構された「兎角亀毛」が持つ暴力の問題を真っ正面からとらえるほかない。








⇒ ココログ版 存在しないものも存在するかのように思い込みがち: Essais d'herméneutique


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