戦前昭和のキリスト教の自己認識:(一)利用されて利用したる時代、(二)弁証時代、(三)基礎工事を終へて直面する諸問題





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 無から有は生れて来ない。だからして、無い光を放たうとすることは、魚を木によつて求むるよりも愚かしいことである。成る程、現代文化を代表する大都会の夜は、昼をも欺くやうに明るいイルミネーシヨンや、ネオン灯の色美しい輝きを見せてゐる。然しその輝きが明るければ明るいだけ、色美しければ、美しいだけ、それだけ暗さと陰鬱な圧迫とを感ぜしめるのは何故か。真昼には空の太陽に照され、夜にはまた人工の太陽を浴びて、どう考へても光に恵まれて居るべき筈なる近代人の生活が、何が故に斯くも暗きか。
    −−岩橋武夫『星とパン 世界苦に臨む基督教』教文館、昭和七年、160−161頁。

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1932(昭和7)年に刊行された岩橋武夫『星とパン』(教文館)の六章は「日本に於ける基督教々育の貢献」と題され、維新後に再渡来したキリスト教が日本社会にどのように受け容れられてきたのか回顧する内容になっているが、これが非常に興味深い。
※岩橋武夫(1898−1954)はキリスト教教育者としての側面よりも、日本を代表する社会事業家(特に愛盲事業)としての認知の方が強い。自身も大学在学中に失明している。

明治改元からおよそ60有余年。
昭和前半のキリスト教の自己認識ともいえようが、岩橋によれば、その段階は次のように分類されることになる。

(一)利用されて利用したる時代
(二)弁証時代
(三)基礎工事を終へて直面する諸問題

まず、(一)は、時期的区分として明治維新と共に信仰の自由が許されてから教育勅語憲法の発布される明治中盤が配当されている。

「当時の覇気にとめる青年は、語学(特に英語)を学び西風の文物を獲得するに便なるを以て、競つてキリスト教に来つた。これらの青年の中には、全くキリスト教を学術文化獲得の手段として利用したものが多く、社会も亦かかる目的のもとにキリスト教的教育を歓迎する傾向甚だ濃厚にして、キリスト教教育とはその当時の欧化主義の先駆者の如く考へられた」。

開国維新後の進取の国是、欧化主義の流行を背景としながら、西洋社会そのものとしての「キリスト教」を媒介に、文物が広く学ばれたことの指摘である。そしてそのきっかけとしてキリスト教(教育)が窓口を担った。

「吾国教育界はキリスト教々育をを通して、その中に含まれたる欧米の文化を獲得せんとし、キリスト教教育はこれと繁多に、その欧米文化を通してキリスト教自体を教育せんとするのにあった」時代である。

その意味では、利用され利用した時代という規定となっている。

そして後にキリスト教主義の名門大学が次々に設置されたのもこの時代の特色である。嚆矢となる同志社大学は1875年の設立である。同志社からは、明治大正昭和をリードする牧会の指導者のみならず、文人や知識人を次々と輩出した。

加えて女子教育に先鞭をつけたのもキリスト教であることはいうまでもない。

次の(二)は、明治中盤から大正初等にかけての時期である。

国家機構の整備とともに、あたまをもたげてきた国粋主義の気風は、欧化主義の後退と入れ替わるように伸張し、内村鑑三不敬事件は、「排耶主義」へと転ずることとなる。

キリスト教排斥の代表的な論客のひとり井上哲治郎は「非国家主義的無差別愛にして、我国の伝統美徳なる忠孝一本主義と甚だしく相矛盾するものなり」と激しく攻撃の陣を張ったが、キリスト教界からは、植村正久をはじめ、カトリック正教会にいたるまで、様々な形で応答をすることになる。

排耶論の展開は、おおむね三つの立場からなされている。教育勅語に代表される「儒教の立場」、それから、文明開化ののちに流行する「実利的根拠」からの宗教性攻撃、そしてスペンサー流の「進化論的立場」がそれである。

これら三つの論的に対して、キリスト教とその教育は理論に基づく立場の弁証をせまられることになる。

その意味ではまさに「弁証時代」と呼ばれる時期であり、恐らく、これはキリスト教誕生後の初期ギリシア教父たちが、キリスト教とは何かを、ギリシア・ローマ世界の知識人たちに「弁証」した経緯を岩橋は意識しているのだろうと推察される。

「各種の論争を通して、キリスト教はいよいよ学問的に、従つて広く教育的に理論の一般化を得、一方に於て宗教自体の唯物主義に対する認識論的、宗教的哲学的抗争をなすと共に、他方具体的宗教としてのキリスト教をよく我国の国民性とその精神内容に同化せしむる為、正しき努力を試みた」時代と評価できよう。

さて最後の(三)は、以上のプロセスを経た“今・現在”の時期である。

「大正・昭和の時代を迎ふるに至つた新教は、既に伝播以来半世紀を閲し、予め為すべきことの全部を完了して、今やその基礎の上に伸び行く収穫を期待する時期になつた」。

キリスト教宣教は、明治晩年にほぼその基礎が完成する。広く受容するのは都市部サラリーマン、学生世帯を中心に布教は続くが、大正期以降激増することはない。その経緯が(一)利用されて利用したる時代、そして(二)弁証時代であった。

そしてそれを受けて、昭和のキリスト教、そしてキリスト教教育は「基礎工事を終へて直面する諸問題」にどのように挑戦していくべきか。

大正後期から昭和初頭にかけて一大潮流となるのは、「マルクス主義」の問題である。大正デモクラシーをリードした民本主義を経て、実際上の社会組織の変革を目指す「マルキシズムやコンミユニズムに基く唯物運動」が、大きな障害として立ちはだかるようになってくる。岩橋もこれを驚異として認識しているようである。

「唯物運動に対してキリスト教自体の立場よりその宗教性並びに社会性の認識を新にし、一方に於て深き個人の霊的体験を主張しながら、他方に於てそれを社会化し、国家と階級との間に横はる物的諸問題の解決に邁進すべき時期が到来しつゝあることを思はせられる。キリストの福音が個人の心霊を救済するのみならず、その十字架愛の精神に基づき、社会と国家の救済を必要とすることは最早議論の余地を許さない」。

では、具体的にどのように挑戦していくべきか。

「現在のキリスト教は再び設立の精神に戻り、キリストの使命を新たに把握し、これを理論的に実践的に具体化せんとする真のキリスト教者や学徒を教養して社会に送らねばならない」。

そして五つのテーマを掲げている。

一、熱烈なる愛の奉仕
二、平和運動
三、国際主義の強調
四、男女の機会均等
五、社会連帯性の高唱

キリスト教の原点に立ち返り、男女の相互尊重を基礎にした個人の尊厳性の涵養、平和主義、国際主義、そして個と社会との連帯……この徳目が、今後の課題となるのではないかと岩橋は考えた。

確かに、その理想的なるものが、現実のただ中へ……と雪崩をうって実践へと傾倒していく若い世代に有用なのかどうかは疑問が残ることは否めない。しかし、半世紀近くわたるキリスト教再渡来の歴史を踏まえた上で、もう一度原点回帰を目指し、そしてその現代的展開を模索した「反省」、そして「自己理解」と「展望」には真摯さをうかがい知ることができる。

本書は、満州事変の翌年にあたり、翌年には満州国が成立する時期に出版されている。キリスト教に限らず、日本全体が、戦争状態であるにも「事変」とごまかしながら、戦争の拡大へと大きく傾倒していく時期である。「平和」「国際」という言葉すら使用するのが「はばかれ」つつある時代である。

たしかに「理想的」“理念”の羅列にしかみえなくもないが、時世を勘案するならば、「いうべきこと」をきちんと吐露した勇気ある挑戦と読むこともできる。教会内に目を転じても、敵はマルクス主義だけではない。キリスト教界のなかからも、国粋主義への同化をはかる「日本的基督教」という主張も大きくなってきている時期である。

だからこそ、岩橋は、キリスト教の日本における「受容」の歴史を振り返りつつ、もう一度「原点」を忘れては生けないとくさびをうった。

本書の副題には「世界苦に臨む基督教」とつけられている。先のように想像することに難くない。










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覚え書:「特集ワイド:内閣府参与を辞任、湯浅誠さん 「入って」みたら見えたこと」、『毎日新聞』2012年3月30日(金)付(東京夕刊)。


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特集ワイド:内閣府参与を辞任、湯浅誠さん 「入って」みたら見えたこと

ブラックボックスの内部は「調整の現場」だった
 08年末の「年越し派遣村」村長として知られる湯浅誠さんが今月7日、内閣府参与を辞任した。政府の外から貧困対策を訴えてきた社会運動家が、政権内に入って約2年。中に入って見えたものは?【山寺香】

 ◇求められれば関わり続ける
 湯浅さんが最初に内閣府参与になったのは、民主党政権交代した直後の09年10月。派遣村村長として政府を厳しく批判してきた人物の登用は、注目を集めた。10年3月に一旦辞任し、同年5月に再任用された。

 この間の政権の変化をどう見ているのか。
 「漠としたイメージで言うと、従来の自公政権から一番外れたのが鳩山由紀夫政権でした。そこで提示された格差・貧困政策の方向性はおおむね歓迎すべきものでしたが、その後の菅直人政権で少し戻ってきて、野田佳彦政権でかなり戻ってきた。菅さんのころから、かつての自民党の幅の中に収まってきたと感じています」。しかし、辞任の理由はこの揺り戻しではない。
 「辞任したのは、直接関わってきた生活困窮者らの雇用や生活、住居などを総合的に支援するパーソナル・サポート・サービスが制度化の軌道に乗ったことと、ワンストップ相談支援事業が事実上来年度の予算を確保でき、仕事に一区切りがついたため。関わった事業のめどが立ったから辞める。それは10年の時も同じで、自分の中で決めた基準です。仮に今民主党の支持率が高かったとしても、辞めていますし、今後首相や政党が代わっても、求められれば関わり続けるつもりです」

 ◇利害複雑で結果責任伴う
 社会運動家が政府に入って見えたことは何か。それは、政治が「調整」の現場であることだったという。
 「90年代にホームレス問題に関わっていたころ、社会や世論に働きかけて問題を解決したいという思いはあったが、その先の永田町や霞が関に働きかけるという発想はなかった。こちらが投げ込んだ問題は、ブラックボックスを通して結果だけが返ってくる。『政治家や官僚は自分の利益しか考えていないからどうせまともな結論が出てくるはずがない』と思い込み、結論を批判しました。しかし参与になって初めて、ブラックボックスの内部が複雑な調整の現場であると知ったのです」
 ブラックボックスの内部では、政党や政治家、省庁、自治体、マスコミなど、あらゆる利害関係が複雑に絡み合い、限られた予算を巡って要求がせめぎ合っていた。しかも、それぞれがそれぞれの立場で正当性を持ち、必死に働きかけている。「以前は自分が大切だと思う分野に予算がつかないのは『やる気』の問題だと思っていたが、この状況で自分の要求をすべて通すのは不可能に近く、玉虫色でも色がついているだけで御の字、という経験も多くした」
 そして、こんな教訓を得たという。
 「政府の中にいようが外にいようが自分は調整の当事者であり、『政府やマスコミが悪い』と批判するだけでは済まない。調整の一環として相手に働きかけたが結果が出ない−−それは相手の無理解を変えられなかった自分の力不足の結果でもあり、工夫が足りなかったということです。そういうふうに反省しながら積み上げていかないと、政策も世論も社会運動も、結局進歩がないと思う」
 それは、自らに「結果責任」を課すということだ。思わず聞いた。ブラックボックスの中身って、知らない方が楽じゃありませんでしたか。
 湯浅さんは「それはありますね」と苦笑した。「でもね、複雑なことについて、その複雑さが分かるというのは悪いことではありません。物事を解決していくには、複雑なことの一つ一つに対応していく必要があります」

 ◇シンプルとは「切り捨て」だ
 しかし今、それとは逆に、複雑な調整過程を力で突破しようという「強いリーダーシップ」が支持を集めている。代表的な人物は、橋下徹大阪市長だろう。
 「橋下さんが出てくる前、小泉純一郎政権のころから、複雑さは複雑であること自体が悪であり、シンプルで分かりやすいことは善であるという判断基準の強まりを感じます。複雑さの中身は問題とはされない。その結果の一つとして橋下さん人気がある。気を付けなければならないのは、多様な利害関係を無視しシンプルにイエス・ノーの答えを出すことは、一を取って他を捨てるということです。つまり、世の中の9割の人は切り捨てられる側にいる」
 長年、切り捨てられる側を見続けてきたこの人の言葉は、ずしんと重い。
 「けれど、自分たちが切り捨てられる側にいるという自覚はない。なぜなら複雑さは悪で、シンプルさが善だという視点では、シンプルかどうかの問題だけが肥大化し、自分が切り捨てられるかどうかは見えてこないからです。それが見えてくるのは、何年後かに『こんなはずじゃなかった』と感じた時。本当はそうなる前に複雑さに向き合うべきですが、複雑さを引き受ける余力が時間的にも精神的にも社会から失われている。生活と仕事に追われ、みんなへとへとになっているんです」
 この現象は、政治というよりも民主主義の問題だと言う。
 「民主主義って民が主(あるじ)ということで、私たちは主権者を辞めることができません。しかし、余力がないために頭の中だけで降りちゃうのが、最近よく言われる『お任せ民主主義』。そのときに一番派手にやってくれる人に流れる。橋下さんはプロレスのリングで戦っているように見えますが、野田さんはそうは見えない。要するに、橋下さんの方が圧倒的に観客をわかせるわけです。でも残念ながら、私たちは観客じゃないんです」

 ◇誤解も含めて自分の責任と
 約束の1時間があっという間に過ぎた。湯浅さんは20分後、東京駅から大阪行きの新幹線に乗るという。もう少し話を聞きたいと、東京駅に向かう車に同乗させてもらった。 本当のところ、政権内に入ってみてよかったですか?
 「個人的にはよかったですが、『あっち側に取り込まれてしまった』という意見をはじめ、誤解はいろいろ生まれました。それは、私の責任として議論していかないといけない。参与を辞めて2週間ほどたちますが、毎晩のように飲み歩いて、議論していますよ。あちこちで納得いかないと言われながらね」
 車が東京駅のロータリーに滑り込む。問題解決のための働きかけ方は変わっても、目指すビジョンは変わらない。「2年前と変わりませんね」。そう言おうとしたが、軽く片手を上げ、湯浅さんはもう足早に改札口に向かっていた。

人物略歴 ゆあさ・まこと 1969年、東京都生まれ。95年からホームレス支援活動に関わる。東大大学院在学中の01年、NPO「自立生活サポートセンター・もやい」設立。「反貧困ネットワーク」事務局長。
    −−「特集ワイド:内閣府参与を辞任、湯浅誠さん 「入って」みたら見えたこと」、『毎日新聞』2012年3月30日(金)付(東京夕刊)。

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http://mainichi.jp/select/seiji/archive/news/2012/03/30/20120330dde012040004000c.html


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