親切丁寧?に仕込まれる「管理教育」への一抹の寂しさ






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 学生が受け身であればあるほど、大学はガイダンスやオリエンテーションに熱心になる。入学式がすむと、つづいて数日ガイダンスが行われる。必修や選択の科目がどうなっているか。卒業までに、あるいは専門課程に進むためには、どういう科目をとらなければならないか。図書館を利用するにはどうしたらよいか、こと細かに説明が行われる。きみたちはあるいは、それは当然だし、新しく大学に入ったのだから、いろいろオリエンテーションが必要だ、と思うのではなかろうか。だが、ガイダンスが親切丁寧に行われれば行われるほど、きみたちの学生生活は受け身の生活になる。
 実をいえば、一九六〇年ころまでは、大学ではあまりオリエンテーションは行われなかった。まして私が大学に入学した戦争前などは、「学生便覧」などと書かれた小冊子をワタされるだけで、あとは先輩に聞くか、授業に出てみるか、する以外になかった。もちろん、そこには学生の思い違いや、無駄がなかったわけではない。しかし、失敗は成功のもとである。少々手間どったからといって、くよくよすることもなかった。ところが、今の学生生活は、ガイダンス漬けである。失敗は少なくなるかもしれないが、生活はそれだけ受け身となる。そこには、あとで述べるように、止むをえない点もあるが、もう少しのびのび学生生活を送りたいものである。
    −−隅谷三喜男『大学でなにを学ぶか』岩波ジュニア新書、1981年、53頁。

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別に「昔はよかった」とノスタルジアに浸ろうとは思いませんし、昔の大学にも問題は多々あったし、昔の学生よりは今の学生の方が遙かに優秀だということは事実だと思う。

大学とはそれまでの義務教育とは異なり、自主独立の人間を育てる自由の学府であるにもかかわらず、現状をはっきりいえば、仕組みとして「自律」を損なう方向へ舵を切ろうとしていることだけは大変残念に思う。

そしてそれを強引に推し進めるのが文部科学省の大学行政であり、個々の大学は、現実にはそれに抵抗することができず、そのまま右へ倣えというのが実状ではないでしょうか。

学生だけでなく教員そのものも被害者であるなーと痛感するのですが、痛感するだけで悲嘆してもはじまらないので、「就職活動の役にも立たない」とか「糞の役にも立たない」教養教育の分野から、なんとかしないとなーと暗中模索する毎日です。

たとえば、ICカード化された学生を端末にタッチして出席をとるシステムの導入、休日まで返上して15回授業の死守、履修前後での数値による「見える化」……。さまざまな試みが日本の大学で導入されています。

たしかに便利ですし(ただ代返のイタチごっこはあいかわらずですが)、ひとむかし前なら休講になっても補講なんてなかったのですが、きちんと確保することは素晴らしいとは思うし、そして科目によってはきちんと数値化で判断できるものもあるでしょう。

しかし、大学とは極論すれば出席するも欠席するのも、小学校ではありませんから、当人が自主的に判断するのが前提条件だと思います。もちろん、出席率があがるのは歓迎すべきでしょう。しかし、他律的にそれが行われるのではなく、学生が出たくなるような講座であり(それが「直接いい企業に就職できることに訳の立たない」教養教育の科目であったとしても)、出席による単位認定を餌につるようなのは何か違うような気がするし、そういう仕組みへと誘導する「総他律社会化」への権力の眼差しには辟易としてしまいます。

また15回授業、たしかに結構なことだと思います。
しかし学生の関心によって、シラバスで当初予測した内容になるわけではありませんが、「シラバスどおり授業は進行したのか?」みたいなのもね〜。

そして、履修前後での数値による「見える化」なんていうものは、そもそも「見える化」によって判断できない人間そのものを育成する高等教育への暴挙といっても過言ではありません。
※もちろんそのことによって、教員が十年一律のくそくだらない授業をやることへの免罪符としてしまうのは論外ですがね。

いずれにしても、大学とは、国家がこういう人材を創りたい……というものと、特に私立大学の場合は、無縁の「人間」そのものを育てる自由の学府じゃないですか。

もちろん、日本の近代教育における大学教育史は「国家のため」という強烈なまなざしがあったことは否めません。しかし、そもそも大学が誕生した経緯をふりかえれば、鋳型に材料をいれて金太郎飴を拡大再生産するのは大学の役割ではありません。

そういうところへ、例えば、私学助成金カットをちらつかせながら、強烈に管理化へシフトしていく教育行政。もちろん、現実に大学はNo!といえない状況が存在することは理解できます。

ただしかしねぇ、例えば、ニュースレターなんかで、「当大学はいち早く、出欠確認の電子化を実現しました!!!」とか「数値的に向上しました!」って無邪気にエヘンとやるのはどうかと思う。

しかたがないことはよくわかりますし、従わざるを得ない事情もわかります。しかし、言及したとおり、「わたしたちは教育行政の優等生!」などとやってしまうと、それはそれで自殺行為だと思う。

先週から前期の授業が始まりましたが、くたびれたサラリーマンが、社員証を首からつるして……それはまるで飼い主に絡められた犬の首輪のように……仕事をするように、無邪気に学生証を社員証のようにくびから提げた学生を目にするようになるのですが、正直、社畜を想起してしまう。


あんたは非常勤だからうだうだいえるといわれてしまえばそれまでですが、学問の自由の歴史を守ろうとした歴史は日本の先人にも存在するから。このあたりの感覚に無自覚になってしまうとおしまいだとは思います。









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大学でなにを学ぶか (岩波ジュニア新書)
隅谷 三喜男
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覚え書:「みんなの広場 背負えないものを次代に残すな 自営業 57(神戸市西区)」、『毎日新聞』2012年4月13日(金)付。



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みんなの広場 背負えないものを次代に残すな
自営業 57(神戸市西区)

 大阪維新の会が3月に次期衆院選政権公約のたたき台を発表。戦争放棄をうたった憲法9条改正の是非を問う国民投票が盛り込まれています。会代表の橋下徹大阪市長は発表前の2月、憲法9条について「他人を助ける際に嫌なこと、危険なことはやらないという価値観。国民が(今の)9条を選ぶなら、僕は別のところに住もうと思う」と報道陣に語っていました。
 しかし、多くの人を殺し、また殺されて、笑顔が生まれるでしょうか。戦争をしないで、お互いが理解し合うための努力は、戦争をするよりはるかに大きなエネルギーが必要です。そして、その努力を惜しんではいけないと思うのです。
 私たち大人は放射能汚染という、次世代にわびてもわびきれないものを残してしまいました。これ以上、背負いきれないものを残してはいけません。次代を担う人たちのために、真の大人として振る舞えるかどうか、極めて大事な分岐点に立っていると思うのです。
    −−「みんなの広場 背負えないものを次代に残すな 自営業 57(神戸市西区)」、『毎日新聞』2012年4月13日(金)付。

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