覚え書:「言論空間を考える:拡散する排外主義 東島誠さん、白井聡さん」、『朝日新聞』2014年12月20日(土)付。
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言論空間を考える:拡散する排外主義 東島誠さん、白井聡さん
2014年12月20日
ネット空間から「反日」や「売国奴」といった言葉が広がり、メディアにも登場するようになった。レッテルを貼り、排外的に攻撃する言動が拡散する背景には、何があるのだろうか。この国の歴史と言論をめぐる歩みから考えた。
■「江湖」の精神、取り戻そう 東島誠さん(歴史学者)
坂本龍馬が理想を求めて土佐を脱藩したときの出港地といわれているのが、伊予国長浜(現在の愛媛県大洲市)の「江湖(えご)」の港。本来の読みは「ごうこ」、もしくは「こうこ」です。
江湖は、唐代の禅僧たちが「江西」と「湖南」に住む2人の師匠の間を行き来しながら修行した故事に由来します。一つの場所に安住することを良しとせず、外の世界へと飛び出すフットワークの軽さを表します。国家権力にも縛られない、東アジア独自の「自由の概念」といってよいでしょう。
幕末を駆け抜けた龍馬の遺志を継ぐかのように「江湖」の看板を掲げたのが、明治期の言論界です。「江湖」を名に冠する新聞・雑誌が多数生まれました。当時は「官」に対する「民」、「国家」に対する「市民社会」が「江湖」でした。自由民権思想のリーダーだった中江兆民は、東洋自由新聞で読者を「江湖君子」と呼んで社説を書き、晩年は兆民自身が「江湖放浪人」などと呼ばれました。
現代では「江湖」は全くの死語となりました。ネット空間においても、私は「江湖」の精神を見つけにくいと感じています。「江湖」とは正反対の嫌韓・反中やヘイトスピーチなど、排外的な主張があふれているからです。異論を述べると激しく攻撃され、排除される。ネットは人々を開くどころか、閉じる方向へと進める役割を果たしていると思います。
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<力増す「対外硬」> ところが明治期を振り返ると、そこには「江湖」の精神が息づいていました。夏目漱石をはじめとする名だたる文豪が寄稿した「江湖文学」は、無名の読者に投稿を呼びかけて参加の場を開きました。同誌の仕掛け人、田岡嶺雲(れいうん)は、窮乏していた韓国(植民地支配以前の大韓帝国)からの留学生を援助するため、幸田露伴の妹、幸(こう)らの出演するチャリティーコンサートを企画し、「江湖」に対して義援金を呼びかけてもいます。
しかし、「江湖」の精神は、日露戦争を境に退潮していきます。かわって政府の弱腰外交をたたき、外国への強硬姿勢を掲げる「対外硬(たいがいこう)」が力を増し、「下からの運動」が台頭しました。その頂点が1905年の日比谷焼き打ち事件です。ロシアに譲歩したポーツマス条約に不満を持つ数万人の群衆が日比谷公園に詰めかけ、暴徒化して内相官邸や警察署、政府擁護の新聞社を襲撃したのです。
社会派弁護士の花井卓蔵らと超党派的な政治結社「江湖倶楽部(くらぶ)」を立ち上げた小川平吉は、早々に「江湖」の世界を離脱し、「対外硬」を推進しました。さらには政治家として、その後の韓国の植民地化や袁世凱政府への21カ条要求、治安維持法制定にも深く関与するに至ります。
「江湖」が退潮したもう一つの理由としては、「江湖倶楽部」と共闘して社会変革に取り組んだキリスト教思想家、内村鑑三のような良心的な知識人たちが、時代の変化とともに内省に向かい、結果として積極的な外への発言力を弱めることになった点があります。
かくして「江湖」は「対外硬」に負け、日本は戦争の時代に突入していきました。ネットの言論空間やデモで排外主義が吹き荒れる昨今の状況は、百年前の「対外硬」を思い起こさせます。
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<新聞は「荷車」に> 現代のメディアに「江湖」の精神を復活させる道はあるのでしょうか。新聞社の主筆も務めた中江兆民は「新聞は輿論(よろん)を運搬する荷車なり」と語っています。私は「荷車」での運搬に汗する肉体労働、そのアナログ感が重要だと考えています。新聞記者は現場を歩いて、取材先の話を丹念に拾うことが大切だと思うからです。
江戸時代に活躍した行商の貸本屋も重い本を何十冊も背負い、読者を訪ね歩く大変な重労働でした。彼、彼女らは書物だけでなく、様々な情報を直接人と会うことで媒介していったのです。人々と直接顔を合わせて交流するその様子は、現代よりもはるかに開かれた社会を感じさせます。
希望や明るさが感じられない時代です。それでもまだ、考え、発言する自由は奪われてはいません。既存メディアは考えるための材料を汗して運搬することを、あきらめてはいけないと思います。(聞き手・古屋聡一)
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ひがしじままこと 67年生まれ。聖学院大学教授。著書に「〈つながり〉の精神史」「自由にしてケシカラン人々の世紀」「公共圏の歴史的創造」。共著「日本の起源」。
■「大人」になり損ねた日本 白井聡さん(社会思想史家)
「日本人は12歳の少年のようなものだ」。占領軍の総司令官だったマッカーサーは米国へ帰国後、こう言いました。では戦後69年を迎えたいまの日本人は、いったい何歳なのでしょうか。
このところの「日本人の名誉」「日本の誇り」を声高に言い立てるヒステリックな言論状況をみていると、成長するどころか退行し、「イヤイヤ期」と呼ばれる第1次反抗期を生きているのではないかという感じを覚えます。
中国や韓国は文句ばかりで生意気だからイヤ。米国も最近は冷たいからイヤ。批判する人はみんなイヤ。自分はなんにも悪くない――。どうしてこんなに「子ども」になってしまったのか。戦後日本が、敗戦を「なかったこと」にし続けてきたことが根本的な要因だと思います。
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<欠けた敗戦感覚> 日本の戦後は、敵国から一転、庇護(ひご)者となった米国に付き従うことによって、平和と繁栄を享受する一方、アジア諸国との和解をなおざりにしてきました。多くの日本人の主観において、日本は戦争に「敗(ま)けた」のではなく、戦争は「終わった」ことになった。ただし、そうした感覚を持てたのは、冷戦構造と、近隣諸国の経済発展が遅れていたからです。
冷戦が崩壊し、日本の戦争責任を問う声が高まると、日本は被害者意識をこじらせていきます。悪いのは日本だけじゃないのに、なぜ何度も謝らなければならないのかと。対外的な戦争責任に向き合えない根源には、対内的な責任、つまり、でたらめな国策を遂行した指導層の責任を、自分たちの手で裁かなかった事実があります。
責任問題の「一丁目一番地」でごまかしをやったのだから、他の責任に向き合えるわけがありません。ドイツはいまも謝り続けることによって、欧州のリーダーとして認められるようになりました。それのみが失地回復の途であることを、彼らはよくわかっているのです。
1990年代には、河野談話や村山談話のように、過去と向き合う動きもありました。ところがいまの自民党の中には、来年、戦後70年の首相談話を出すことで、河野談話を骨抜きにしようという向きもあるようです。
河野談話の核心は、慰安婦制度が国家・軍の組織的な関与によって女性の尊厳を踏みにじる行為であったことを認め、反省と謝罪を表明した点にあります。この核心を否定するのか。ここまで来たら、やってみたらいかがですか。「内輪の論理」がどこまで通用するのか、試してみたらいい。
国際社会は保育園ではありません。敗戦の意味を引き受けられず、自己正当化ばかりしていると、軽蔑されるだけです。
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<「内輪」脱すべき> 「子ども」を成熟に導くには本来、メディアの役割が重要です。しかし残念ながらいま大方が「子ども」相手の商売に精を出している。「嫌中・嫌韓」本が多く出版され、テレビは「日本人はすごい」をアピールする番組を山ほどつくっています。
メディアの非力さは、権力との関係でも露呈しています。新聞社やテレビ局の幹部が、首相とたびたび会食しているのはおかしい。民主制にとって決定的に重要なのは公開性です。そのような常識を、日本の政治家は欠いているのではないか。だから記者は政治家と個人的関係を築いて情報を得ようとし、「内輪」のサークルが出来あがる。
衆院選投開票日の報道番組で、安倍首相がキャスターの質問に色をなして反論し、イヤホンを外すという一幕がありました。一国の最高権力者が、これほど批判への耐性が弱いことに驚きますが、裏を返せば、それだけメディアが首相を甘やかしてきたということでしょう。日本の政治にとってもジャーナリズムにとっても害悪でしかない、いびつな「内輪」文化を変えるべきです。
日本は、戦後を通して「大人」になり損ねてしまった。先進近代国家になったつもりだったけれど、社会の内実はゆがんでいたという苦い事実をまずは正視するしかありません。それができないのなら、もう一度「敗戦」するしかないでしょう。(聞き手 論説委員・高橋純子)
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しらいさとし 77年生まれ。文化学園大学助教。専門は社会思想・政治学。著書に「永続敗戦論」「『物質』の蜂起をめざして」、共著に「日本劣化論」。
−−「言論空間を考える:拡散する排外主義 東島誠さん、白井聡さん」、『朝日新聞』2014年12月20日(土)付。
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http://www.asahi.com/articles/DA3S11516296.html
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覚え書:「オウリィと呼ばれたころ−終戦をはさんだ自伝物語 [著]佐藤さとる [評者]内澤旬子(文筆家・イラストレーター)」、『朝日新聞』2014年12月14日(日)付。
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オウリィと呼ばれたころ−終戦をはさんだ自伝物語 [著]佐藤さとる
[評者]内澤旬子(文筆家・イラストレーター) [掲載]2014年12月14日 [ジャンル]文芸
■戦時下、志したファンタジー
子ども時代、コロボックルという小指くらいの人が出てくる物語に夢中になった。自分の側(そば)にもいるのではないかとカーテンをめくってみたものだ。似たような経験を持つひとは、たくさんいるはず。
本書は、その不朽の名ファンタジー童話を書いた、佐藤さとるの自伝物語である。
自伝、とはいえ物語のほとんどは、昭和二十年から二年ほどの時期に割かれている。旧制中学を卒業したての十七歳。海軍に志願するものの、病気が見つかり自宅待機、空襲、北海道への疎開、そして敗戦。ふくろう(オウリィ)と呼ばれながら占領軍の兵舎で働く日々。公私ともに過酷で異常な時期であるから、鮮烈な記憶があるのだろう。けれども、ほぼ七十年も前のことを、八十六歳というご高齢で、よくもまあここまで緻密(ちみつ)に書き上げたと驚愕(きょうがく)する。空襲を避けながら北上する列車と青函連絡船の記述なぞ、恐ろしさで息が詰まる。しかもあとがきによれば当時日記もつけていなかったというではないか。
著者の視点は、コロボックルが着る服や食べ物を細かに描いたのと似て、いかに生活していたかを緻密に描くことに徹底する。厳しく先の見えない状況下で、童話を書きたいと願い、コロボックル物語の雛型(ひながた)となる話を着想するところも、物語に出てくるエピソードのもとになる体験も、感動的に誇張せず、淡々と、暮らしに沿ってつつましやかに描かれる。それが逆に往年の読者の心を強く揺さぶる。
評者がコロボックル物語を読んだ頃、戦争児童文学とよばれる作品が数多(あまた)出版された。それらは劇的かつ感情的に反戦を訴えかけていた。同時期に反戦とは距離を置きファンタジー童話を一貫して書き続けていた著者が今、現在になってあえて戦時下の生活を詳(つまび)らかにする。意図はないのかもしれない。けれどやっぱり今こそ戦時下の暮らしを振り返れと言われているように思えてならない。
◇
理論社・1728円/さとう・さとる 28年生まれ。『だれも知らない小さな国』など数々の童話で親しまれる。
−−「オウリィと呼ばれたころ−終戦をはさんだ自伝物語 [著]佐藤さとる [評者]内澤旬子(文筆家・イラストレーター)」、『朝日新聞』2014年12月14日(日)付。
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覚え書:「哲学散歩 [著]木田元 [評者]水無田気流(詩人・社会学者)」、『朝日新聞』2014年12月14日(日)付。
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哲学散歩 [著]木田元
[評者]水無田気流(詩人・社会学者) [掲載]2014年12月14日 [ジャンル]社会
■強烈な個性と印象深い逸話
今夏亡くなった哲学者によるエッセー。古代ギリシャから20世紀にいたる哲学者たちの逸話が飄々(ひょうひょう)と綴(つづ)られ、そこから思想の解説へとすんなり繋(つな)がる筆力は見事。
たとえば、アリストテレスは同時代の人々からの評価は芳しくなかった。曰(いわ)く、体格は貧相で、人を小馬鹿にしたような顔立ち。服装も髪形も凝り過ぎで、指輪をいくつもつけて自慢していた。極めつきの悪評は、プラトンに対する「忘恩の徒」呼ばわり。だが著者は、「いつもニコニコしている人柄のいい思想家」が、世界を転覆させるような思想を提起することの方がありそうもないのでは、と擁護。もっともアリストテレス自身も、プラトンへの辛辣(しんらつ)な批判が反発を招くことは覚悟していたようだ。真理のためには師にも背くとの真摯(しんし)な姿勢は、敵も多かったに違いない。
ショーペンハウアーは、人気作家だった母とは不仲で喧嘩(けんか)が絶えず、友人のゲーテもろとも母に階段から突き落とされたこともあった。その生い立ちのせいか、彼は大の女嫌い。自室の前で大声で話していた老女に腹を立て、階段の下まで突き落として怪我(けが)をさせ、彼女が死ぬまで毎月慰謝料を払わせられた。彼女が死んだときには、重荷からの解放を喜んだ……とは、解脱としての倫理学を探求しつつも、厭世(えんせい)に彩られた人生を象徴するかのようだ。
強烈な個性と印象深い逸話の数々は、哲学者たちの生きた時代や人となり、さらに息遣いすら感じさせる。頁(ページ)をめくると目に浮かぶのは、白いキトンに身を包みエジプトを周遊しイデア論を構想するプラトン。エトナ火山に身を投じて青銅のサンダルを残したエンペドクレス。ダヴォスのセミナーでカッシーラーと哲学史に残る世紀の対決を演じつつ、晩餐(ばんさん)会場にはあえてスキー服のまま入り、盛装した紳士淑女の間を練り歩いたハイデガー……。歩調を合わせ、読み進めたい。
◇
文芸春秋・1620円/きだ・げん 28年生まれ。哲学者。著書『現象学』『ハイデガーの思想』など。今年8月逝去。
−−「哲学散歩 [著]木田元 [評者]水無田気流(詩人・社会学者)」、『朝日新聞』2014年12月14日(日)付。
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覚え書:「モディアノの世界 堀江敏幸さんが選ぶ本 [文]堀江敏幸(作家)」、『朝日新聞』2014年12月14日(日)付。
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モディアノの世界 堀江敏幸さんが選ぶ本
[文]堀江敏幸(作家) [掲載]2014年12月14日
(写真キャプション)ノーベル賞授賞式に出席したパトリック・モディアノ=AFP時事
■自身の内部の沈黙を描く
去る十二月七日、今年のノーベル文学賞を受賞したパトリック・モディアノが、ストックホルムで短い講演を行った。この作家が人前で話すときに見せる極度のためらいを知っているフランスの読者は、当人以上に緊張していたことだろう。しかしモディアノは、わかりやすい言葉で練られた草稿を訥々(とつとつ)と読みあげ、自身の文学的来歴と小説作法とをみごとに語ってみせた。
■寂しさと空虚感
モディアノは一九四五年、パリ近郊ブーローニュ・ビヤンクールに生まれた。父はイタリア系ユダヤ人、母はベルギー人。偽の身分証明書を得てパリに潜伏していた男と、あまりぱっとしない俳優だった女が、誰も語りたがらない占領下のパリで出会い、子をもうける。留守にしがちな親たちにかわって幼いモディアノと、早くに亡くなる弟を見守ったのは、陰のある怪しげな人たちだった。
先の講演でモディアノは、本を書きあげる直前に味わうどこか落ち着かない寂しさと、書きあげたあとの空虚感、そしてひとり放り出されたような印象について語っている。この空っぽな感覚と、置き去りにされたときの茫然(ぼうぜん)自失は、彼の小説の根幹に触れるものだ。自身の周囲の、また内部の、歴史のなかにあって歴史の中枢にはならない沈黙の部分を、モディアノは執拗(しつよう)に描いてきた。ただし、音楽的な同一句の反復と、ふわふわしているように見えてここしかない一点は外さない正確さをもって。
たとえば一九七八年刊行のゴンクール賞受賞作『暗いブティック通り』は、記憶喪失の状態で私立探偵事務所に雇われていた主人公が、みずからの出自とアイデンティティ探索へと乗り出すミステリ風の物語だ。「私は何者でもない」という冒頭と、自分たちの人生が「夕べの闇に、没していくのではあるまいか?」と結ばれる最後の一文は、この作品のみならず、全著作の特徴をとらえている。自分であるかもしれない他者と、他者であるかもしれない自分。過去の記憶は、追えば追うほど曖昧(あいまい)な領域に逃れていく。
資料や証言は、たしかに存在する。『1941年。パリの尋ね人』は、一九四一年十二月三十一日付の「パリ・ソワール」でモディアノが見出(みいだ)した、十五歳の少女の尋ね人広告が発端になっている。その後、少女はどうなったのか。モディアノは粘り強い調査を重ねて、彼女とその両親が強制収容所に送られたことを突き止め、そこに自身の父の、ありえたかもしれない過去を重ねる。
■過去呼び覚ます
最も新しい邦訳になる『失われた時のカフェで』は、右の二作の精髄をちりばめた連作短篇(たんぺん)形式の一書だ。各篇の語り手は、前章の人物関係や設定を生かしつつ、一人称単数として過去の穴を埋めようとする。しかもそのひとりである女性が、謎の中心線を引っ張っている自覚を欠いたまま、他者の過去をも呼び覚ます。「答えのないままに残された問い」を支えとした過去の時空に、モディアノはあらためて語りの言葉の起源と可能性を見出したのである。
先行きのわからない半睡状態で書かれた言葉が、それを書いてしまった現在の自分と化学反応を起こす。事実に即した特定の過去が幻灯のように輪郭を失って、じわじわと他者の胸に溶け込んでいくモディアノの世界を知るために、まずはこの三作を紹介しておきたい。
◇
ほりえ・としゆき 作家 64年生まれ。『なずな』など。訳書にモディアノ著『八月の日曜日』。
−−「モディアノの世界 堀江敏幸さんが選ぶ本 [文]堀江敏幸(作家)」、『朝日新聞』2014年12月14日(日)付。
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http://book.asahi.com/reviews/column/2014121400002.html
覚え書:「精神科病院を考える:下 根強い、入院中心の文化 上野秀樹さん」、『朝日新聞』2014年12月17日(水)付。
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精神科病院を考える:下 根強い、入院中心の文化 上野秀樹さん
2014年12月17日
日本では32万人を超える人たちが精神科病院に入院しています。先進諸国に比べると入院期間も極めて長く、認知症の人の入院も増えています。精神科医として現場で精神医療のあり方に疑問を感じ、発言を始めた内閣府障害者政策委員会委員の上野秀樹さん(51)に聞きました。
■「退院」「暮らし」、支える意識を
――日本ではなぜ、精神科の入院患者が多く、長期なのでしょう。
「歴史を振り返る必要があります。明治時代には法律で、『座敷牢』と言われるような自宅の一角で隔離することが認められていました。その後、公立病院の建設は進まず、戦後、精神科は一般病院より医師や看護師の数が少なくていいという特例や安くお金を借りられる制度ができ、民間の精神科病院がどんどんできました」
「1964年にはライシャワー米国駐日大使が精神障害のある少年に刺される事件があり、『野放し』反対キャンペーンが起こります。直後に国は入院中心の医療へとかじを切り、病床は増え続けました」
「いまも政策の根底には『社会から隔離・収容する』という思想が流れていると思います。ハンセン病での強制隔離政策と似ています」
――現場にもそんな思想があるのでしょうか。
「精神科医は法にのっとって強制的な入院や行動制限をしますが、知らず知らずのうちに精神障害者が長期入院していてもおかしいと思わなくなりがちです。告白すると、私は彼らは自己決定する能力に欠けるので、生活上の指示を出して従わせるのが正しいことだと思っていました」
「入院させ、薬を使って患者を鎮静すれば、家族から感謝されます。私はかつては入院した人が何を希望しているかなど考えたこともありませんでした。いま思うと、家族のための、社会防衛のための薬物療法でした」
「5年ほど前から千葉の病院で認知症の人への訪問診療を始めました。それまでは入院しないと治療ができないと思っていた人が、工夫をすると外来や往診だけで対応できました。たとえば私の携帯電話の番号を家族に教え、『何か変化があればすぐ電話を』と伝えます。すると家族が安心する。それが本人に伝わるのでしょう。症状が落ち着くんですね。実際ほとんど電話はかかってきませんでした」
「認知症の人の症状や行動の原因を探り、そのメッセージを見極めて環境やケア、薬を調整すれば入院しないでも改善すると実感しています」
――そういう実践が広がれば、入院は減りますか。
「精神科病院には『吸引力』があります。病院は『困った存在になりうる人』をとりあえず引き受けてくれるので1回利用すると癖になる。そんな『便利な施設』が地域にあると、『工夫すれば地域で支えることの出来る人』が吸い込まれてしまう。工夫しなくていいので多様な人を支える仕組みが育たないということになります」
「急性期対応のために全国で5万〜10万床の緊急用の病床は必要ですが、それ以外は国が強制的に減らすぐらいのことをしないと減らないでしょう。入院患者は病院にとっては収入源。強力な政策誘導が必要でしょう」
――厚生労働省が進める「病床転換型居住系施設」についてはどうですか。
「病院の敷地内ですから、鍵がかかる、かからないの違いはあっても、社会からの隔離、精神障害者の自己決定権の軽視など病院の文化はそのまま残ると思います。統計上の入院者数は減っても実態は変わらないということになりかねません。私自身、病棟で精神症状のある人を見ると、今でも自動的にスイッチが入って、いかに鎮静させるかということを真っ先に考えてしまう。精神科病院の文化を消し去るのは本当に難しいことで、病院の敷地内で、本当の意味での『退院』や『暮らし』を支える意識をスタッフがもてるか疑問です」
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精神科医・内閣府障害者政策委員会委員 東大医学部卒。都立松沢病院などを経て、勤務医のかたわら、内閣府障害者政策委員会委員、千葉大学医学部付属病院地域医療連携部特任准教授を務める。
■長い在院日数、減らない病床
全国の精神病床は34万あり、9割が民間病院。精神疾患を抱える患者は全国で320万人おり、32万人を超える人たちが入院している。そのうち3分の2が1年以上で、5年以上の入院も約11万人。平均在院日数も285日(13年)と諸外国と比べると極めて長い。
10年前に厚生労働省が「入院医療から地域生活へ」との基本理念を打ち出し、治療に入院の必要がない「社会的入院」の7万2千人の退院を進めて病床を減らすと目標を立てたが、実現は難しそうだ。
厚労省は今年、病床を減らして病院の施設内や敷地に新たなグループホームや介護施設、アパートなどをつくる「病床転換型居住系施設」について検討。対象を現在の入院患者に限定するなど条件つきで敷地内でのグループホームへの転換を認める方針だ。当事者団体などからは「病院の敷地内では本当の意味で退院したことにならず、看板の掛け替えにすぎない」と批判の声があがっている。(編集委員・大久保真紀)
−−「精神科病院を考える:下 根強い、入院中心の文化 上野秀樹さん」、『朝日新聞』2014年12月17日(水)付。
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http://www.asahi.com/articles/DA3S11510764.html