日記:@kiyohiko_toyama 代議士への手紙

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覚え書:「戦後の原点:東京裁判、戦争責任論に影 二村まどか・法政大准教授に聞く」、『朝日新聞』2016年05月02日(月)付。

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戦後の原点:東京裁判、戦争責任論に影 二村まどか・法政大准教授に聞く
2016年5月2日

二村まどか・法大准教授=早坂元興撮影
 
 天皇人間宣言や初の女性参加の衆院選、新憲法の公布など、「戦後」の幕開けを告げる多くのできごとが、敗戦間もない1946年に刻まれた。この年の5月3日に開廷した東京裁判=キーワード=もそのひとつ。70年前の裁きが「日本人の歴史観に複雑な陰影を与えている」とみる二村まどか・法政大准教授に話を聞いた。

 ――東京裁判のあった46年を、どうみますか。

 「紛争や戦争の後に開かれる国際刑事裁判を、研究者は“The last act of the war, the first act of the peace(戦争の最後の行いであり、和平への最初の行いである)”とみます。46年は、敗戦国から平和国家へ一線を引いて前へ進もうとした年。その象徴が東京裁判でした」

 「東京裁判は第2次世界大戦後にドイツを裁いたニュルンベルク裁判と並び、旧ユーゴ紛争やルワンダ内戦の戦争犯罪を裁く、現代の国際刑事裁判の始まりでした」

 ――とはいえ東京裁判に重苦しい印象を抱く日本人は少なくありません。

 「私もそう。留学先で指導教授から『東京裁判を取り上げてみたら』と提案され、研究テーマとして扱うことを当初かなり躊躇(ちゅうちょ)しました。それを見た教授が『なぜそう感じるのか、そこが面白い』と背中を押してくれました」

 ■心地よい歴史観

 ――裁判は日本社会に何をもたらしたのでしょう。

 「審理を通じて戦争の実態が明らかになった。中国の民間人を虐殺した南京事件もそう。国民に戦況など情報を隠してきた軍部への怒りが高まりました」

 「日本の侵略という戦争像も示されました。『負けたから仕方ない』と消極的に受け入れた面もありますが、軍に責任があり、国民は被害者という筋書きは、国民にとって心地よい歴史観でもあったのです」

 ――でも、占領が終わると不満が表面化します。

 「侵略戦争ではなく欧米への自衛戦争だった、アジア解放の戦争だったと一部の人々は強く主張しています。『勝者の裁き』という批判は今もくすぶる。国際法的に確立していなかった『平和に対する罪』で個人を事後的に裁いたこと、原爆など連合国の非人道的行為は審理されなかったこと。裁判の不備が、判決への批判を下支えしてしまいました」

 ――声高な反論がある一方、最近の世論調査では、3分の2が裁判の中身について知りません。

 「無関心もあるでしょうが、背景には裁判について語り、教訓を学ぶことに対し、どうせ『勝者の裁き』だという冷笑や、触れたくないタブーがある。沈黙の中に陰影に富む複雑な感情が隠れています」

 「左右のイデオロギーがぶつかりあうテーマになり、歴史観東京裁判の是非を切り離せなくなっている。裁判に不備はあっても、日本の戦争責任が無くなるわけではなく、本来は分けて考えられるはずです」

 ■不満とアリバイ

 ――あのとき、日本人が自ら裁いていれば良かったのでしょうか。

 「この問題を掘り下げると、70年前に裁かなかった問題に突き当たる。天皇の責任や日本軍の細菌部隊、連合国の戦争犯罪、国民全体の責任――。日本人に任せたとして、より良い裁きができたかどうか。でも、裁判は本来、日本人が戦争責任に向き合うチャンスでした。国際裁判という形をとったことで、外からの押し付けという不満と、自ら追及せずにいることへのアリバイを与えてしまった」

 「今年3月、旧ユーゴの国際裁判で元セルビア人勢力指導者が有罪とされました。セルビアでも『勝者の裁き』と不満が出ています。東京裁判に反発する日本の一部の人々の反応は特殊なものではありません。国際法廷という外部の力で戦争責任を裁く課題を示しています」(聞き手・西本秀)

     *

 ふたむら・まどか 74年生まれ。ロンドン大学で戦争学の博士号取得。専門は国際関係論。著書に「戦犯法廷と移行期正義――東京裁判ニュルンベルクの遺産」(英文)

 ■日本の歩み、「芽」は1946年に

 敗戦の翌年1946年1月。皇太子だった天皇陛下は書き初めに、「平和國家建設」としたためた。同年11月に公布された新憲法は三本柱のひとつに平和主義をうたった。戦争に苦しんだ国民には「平和」の文字がまぶしかった。

 この年3月、戦後初の総選挙に立った後の首相、田中角栄はこう訴えた。「新潟と群馬の境にある三国峠を切り崩してしまう。日本海季節風は太平洋側に抜けて、越後に雪は降らなくなる。大雪に苦しむことはなくなるのであります」

 夢物語の演説に込められたのは、庶民の生活向上の願いだった。角栄は道路を通し、新幹線をひき、日本列島を改造する。「豊かさ」を求める時代だった。

 あれから70年。その「平和」と「豊かさ」の二本柱が揺さぶられている。

 歴代内閣が違憲とした集団的自衛権の行使が、安全保障法制で解禁された。経済は混迷し、貧富の格差が、「一億総中流社会」を過去のものとしている。

 日本はこれからどこへ進むのか。その議論のために、戦後日本とは何だったのかを確かめておきたい。

 食べものにも事欠いていた日々に、人々はなぜ熱く民主主義を語ったのか。戦争はこりごりだと思い、足元の生活を豊かにしようとしたあの思いはどうなったのか。

 1946年という年には様々な戦後改革が実行された。発展の芽も、その後に発生した問題の芽も、この年の出来事の中にある。これから約1年をかけて、1946年を中心とする「戦後の原点」を振り返る特集記事を随時掲載する。まずは、日本が戦争へのけじめを求められた「東京裁判」の話から始めたい。(編集委員・三浦俊章)

 ◆キーワード

 <東京裁判> 第2次世界大戦後、米英などの連合国側が元首相の東条英機ら日本の戦争指導者を裁いた。正式名は「極東国際軍事裁判」。1946年5月3日に開廷し、侵略戦争を行った「平和に対する罪」や捕虜虐待などの「通例の戦争犯罪」、一般市民の虐殺など「人道に対する罪」を審理した。48年11月の判決で、東条ら7人が絞首刑となるなど25人が有罪とされた。
    −−「戦後の原点:東京裁判、戦争責任論に影 二村まどか・法政大准教授に聞く」、『朝日新聞』2016年05月02日(月)付。

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http://www.asahi.com/articles/DA3S12338513.html


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覚え書:「真実―私は「捏造記者」ではない [著]植村隆 [評者]保阪正康(ノンフィクション作家)」、『朝日新聞』2016年05月22日(日)付。

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真実―私は「捏造記者」ではない [著]植村隆
[評者]保阪正康(ノンフィクション作家)  [掲載]2016年05月22日   [ジャンル]政治 社会 
 
■幾重にも浮かぶこの社会の病理

 従軍慰安婦問題の本質は2点ある。その1は、「軍隊と性」で、古代ローマ以来、性病によって軍隊が機能しなくなることへの懸念である。その2は、20世紀の軍隊と性は、それぞれの国の政治体制によって異なる点だ。ノルマンディー上陸作戦後のフランスでは慰安所がつくられたが廃止され、占領期日本では慰安所が設置されたが、アメリカ国内で人権の観点からの批判もあり、廃止された。
 ここ数年騒がれている韓国の慰安婦問題は、その意味では幹とは異なった枝葉の問題である。挺身(ていしん)隊の名目で欺き連行したとの報道は、1990年代初頭には各社が行っていた。それが朝日の、しかもその記事を書いたとされる著者のみにすりかえられるのは別の思惑があってのことだろう。
 本書は、著者のこの問題に対する詳細な報告であり、自分史でもある。とにかく不快感が残る書であり、著者の、自分は「捏造(ねつぞう)記者」ではない、闘っていく、との意気込みの背景に、この社会の病理が幾重にも浮かんでくることに気づかされる。もとより不快感とはそのことを指しているわけだが、病理には「メディアの相互批判の計算」「ネット社会の脅迫の匿名性」「教育機関のタテマエ主義」から、はては「取材報道のあり方」「メディアの検証能力の不徹底」などが含まれる。本書は従軍慰安婦問題を論じているかに見えて、そうではないというのが正直な感想だ。
 アメリカの6大学で、自らの立場を語った体験が記述されている。プリンストン大学の講演会に参加した在米日本人が、非難を浴びねばならない戦時中のことを、日本人はなぜ名誉回復したがるのか、と話したことには考えさせられる。
 昭和初期の天皇機関説排撃運動では、火付け役(右翼系学者・蓑田胸喜〈みのだむねき〉)、広げる役(貴族院議員・菊池武夫ら)、そして政策化する役(文部省ほか)が超国家主義への道をつくった。その構図が想起される。
    ◇
 うえむら・たかし 58年生まれ。元朝日新聞記者。16年3月から韓国のカトリック大学校客員教授
    −−「真実―私は「捏造記者」ではない [著]植村隆 [評者]保阪正康(ノンフィクション作家)」、『朝日新聞』2016年05月22日(日)付。

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幾重にも浮かぶこの社会の病理|好書好日



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真実 私は「捏造記者」ではない
植村 隆
岩波書店
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覚え書:「地域アート―美学/制度/日本 [編著]藤田直哉 [評者]五十嵐太郎(建築批評家・東北大学教授)」、『朝日新聞』2016年05月22日(日)付。

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地域アート―美学/制度/日本 [編著]藤田直哉
[評者]五十嵐太郎(建築批評家・東北大学教授)  [掲載]2016年05月22日   [ジャンル]アート・ファッション・芸能 
 
■「前衛のゾンビたち」の功罪問う

 現在、日本では地域名を冠した芸術祭が増え、かつての地方博ブームのように乱立している。本書はそうした現状を批判的に考察する。
 まず藤田直哉は巻頭の論考で、現代アート地域活性化や経済効果の道具として使われ、十分にクオリティーが審判されないままに“素朴”なプロジェクト型の作品が増えていることから、芸術の地殻変動を指摘する。その特徴は、自己完結的なモノ(絵画や彫刻)をつくるのではなく、美術館を飛び出し、制作のプロセスや住民参加を重視し、コミュニケーションや関係性を主軸に据えていることだ。1960年代には叛逆(はんぎゃく)の精神だった表現の手法が税金を使う地域アートに回収される様態を、藤田は「前衛のゾンビたち」と呼び、衰退していく地域の鎮痛剤になっているという。2014年に発表されたこの論考は大きな反響を呼び、本書はそれを踏まえて刊行された。
 実は藤田はSF・文芸批評家であり、門外漢ゆえに、しがらみもなく問題の核心を突いたわけだ。本書はアーティストやキュレーターとの五つの対話、研究者による3本の寄稿から構成され、専門家から重要な見解を引き出す。テーマの設定が明快なので、雑多な印象は受けない。しばしば参照されるニコラ・ブリオーの論文「関係性の美学」をめぐる議論、日本という文脈、制度の悪用、評価の難しさ、自己検閲、社会学の実験との比較、アート界の状況と今後などの課題が巧みに配置されている。
 東京オリンピックを踏まえた地方の文化芸術振興策により、地域アートはまだ延命されるだろう。が、地方博の二の舞いとならないよう警戒すべきだ。本書はこれまでと異なる抵抗のあり方や新しい批評言語の可能性も感じさせ、未来に開かれている。これは建築における“ハコモノからコミュニティー・デザインへ”の潮流とも重ねて議論できる興味深いテーマだ。
    ◇
 ふじた・なおや 83年生まれ、文芸評論家。著書に『虚構内存在 筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』
    −−「地域アート―美学/制度/日本 [編著]藤田直哉 [評者]五十嵐太郎(建築批評家・東北大学教授)」、『朝日新聞』2016年05月22日(日)付。

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「前衛のゾンビたち」の功罪問う|好書好日








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地域アート――美学/制度/日本
藤田直哉 会田誠 遠藤水城 加治屋健司 北田暁大 佐塚真啓 清水知子 じゃぽにか 有賀慎吾 村山悟郎 田中功起 藤井光 星野太
堀之内出版
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覚え書:「天下一の軽口男 [著]木下昌輝 [評者]末國善己」、『朝日新聞』2016年05月22日(日)付。

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天下一の軽口男 [著]木下昌輝
[評者]末國善己  [掲載]2016年05月22日   [ジャンル]歴史 文芸 

■権力者やり込め、胸のすく思い

 木下昌輝は、宇喜多直家が梟雄(きょうゆう)になるまでを追ったデビュー作『宇喜多の捨て嫁』で、高校生直木賞舟橋聖一文学賞などを受賞。人魚の肉を食べた新撰組隊士が異形のモノに変じる第二作『人魚ノ肉』が、山田風太郎賞の候補に選ばれるスタートダッシュを決めた。
 いま最も注目を集める時代小説作家の第三作となる本書も、上方落語の祖とされる米沢彦八を、虚実を交えて描く伝奇小説である。
 江戸の笑話を随所に折り込みながらテンポよく進む軽妙洒脱(しゃだつ)な物語は、血と暴力に彩られ、グロテスクな前二作とは作風が異なっている。ただ現代にも通じる社会の闇に迫る手法は、まったく変わっていない。
 江戸初期に大坂で生まれた彦八は、物真似(まね)や笑話が得意で、将来は人を笑わして金を稼ぎたいと考えていた。だが当時は、笑話専門の芸人はいなかった。幼馴染(なじ)みの少女・里乃が、親の借金で夜逃げしたと知った彦八は、いつか里乃を笑わすため天下一を目指す。
 まず彦八は、江戸の辻で笑話を披露している同郷の鹿野武左衛門を訪ねる。江戸の芸人は、辻で庶民を笑わせるのを卒業し、豪商の座敷に上がるのがステータスと考えていた。だが彦八は、豪商にだけ芸を見せることに疑問を持ち始める。
 やがて、才能を妬(ねた)む男の謀略で江戸を追われた彦八は、大坂に戻り、多くの人に笑話を見てもらおうと、生國魂神社の境内に立つ。ここでも彦八はライバルの妨害にあうが、客の足を止めるために行った大名の物真似が評判になる。しかし大名をネタにしたため、家臣に狙われてしまうのだ。
 里乃のような幸薄い人を笑顔にしたいという彦八の純粋さは、貧しい人を見下し、贔屓(ひいき)の芸人を道具のように扱う豪商の傲慢(ごうまん)さ、何でも力で解決しようとする武士の横暴を暴いていく。
 権力者の高圧的な態度が江戸も現代も変わらないだけに、彦八がお偉方を笑いで皮肉り、やり込める展開は胸のすく思いがする。
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 きのした・まさき 74年生まれ。ハウスメーカー勤務などを経てデビュー。2015年度の咲くやこの花賞受賞。
    −−「天下一の軽口男 [著]木下昌輝 [評者]末國善己」、『朝日新聞』2016年05月22日(日)付。

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権力者やり込め、胸のすく思い|好書好日


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天下一の軽口男
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木下 昌輝
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覚え書:「戦後の原点:東京裁判:上 裁かれた日本の戦争犯罪」、『朝日新聞』2016年05月02日(月)付。

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戦後の原点:東京裁判:上 裁かれた日本の戦争犯罪
2016年5月2日

何が争われたのか<グラフィック・甲斐規裕>
 日本の戦争指導者を裁いた東京裁判(正式名・極東国際軍事裁判)の開廷から3日で70年。戦後日本の歩みを方向付けた裁判を2回にわたって特集します。初回は「A級戦犯」とされた指導者がどんな罪に問われて法廷で何が争われたのか、戦争に敗れた日本人が判決をどう受け止めたのかをたどります。

 ■対象 東条らAログイン前の続き級戦犯に

 東京・市谷の防衛省にある「市ケ谷記念館」は、省内の見学コースの目玉の一つだ。東京裁判で法廷として使われた旧陸軍士官学校大講堂が移設・復元された。2015年度は約2万5千人が訪れた。

 東京裁判は、1946年5月3日に開廷し、48年11月12日に判決が言い渡された。審理の対象期間は、日本が侵略政策を始めたとされた28年1月から、降伏文書に調印した45年9月までの約18年にわたった。どんな罪を裁くかは、日本と戦った連合国の米英仏ソが45年8月に結んだロンドン協定に基づいた。

 捕虜や人質の殺害といった以前からある「通例の戦争犯罪(B級)」に、侵略戦争を計画したり始めたりする「平和に対する罪(A級)」と一般市民の虐殺など「人道に対する罪(C級)」が加えられた。A〜C級は悪質さの程度ではなく、罪の種類を指した。

 弁護側は、国際法で定着していない罪を裁くことは「事後法」にあたり不当だと批判した。しかし、判決はこれらの罪は当時から国際法にあったと判断した。

 太平洋戦争の開戦時に首相だった東条英機ら、28人のA級戦犯容疑者が被告になった。病死や免訴となった3人を除く25人が全員有罪となり、7人は絞首刑になった。この7人はBC級にも問われ、A級だけで死刑になった被告はいなかった。

 広島と長崎への原爆投下など、連合国の戦争行為は対象外だった。占領統治を円滑に進めるためという米国の判断で、昭和天皇を罪に問わなかった。

 ■審理 戦場の実態明かす

 即決処刑か、裁判か。戦争犯罪人の処罰のありかたをめぐって、当初、連合国側は揺れた。ソ連の指導者スターリンや英国首相チャーチルは「即決処刑」派だった。

 というのも、第1次世界大戦では、戦勝国の英国やフランスが敗戦国のドイツに戦争犯罪人の引き渡しを求めたが、ドイツ側が応じず、自らの手で開いた戦犯裁判で無罪判決を連発させた。

 即決処刑なら証拠を集めて裁判を開く手間はかからないが、勝者による「報復」の色が濃い。これに対して、裁判を開けば法にもとづく処罰として正当性を主張することができる。

 連合国側が選んだのが、国際軍事裁判所の設置だった。日本が1945年8月に受諾を決めたポツダム宣言でも降伏条件の一つとして、「一切の戦争犯罪人に対する処罰」が盛り込まれた。ドイツに対するニュルンベルク国際軍事裁判(45年11月〜46年10月)と同様に東京裁判を開いた。

 裁判の証人は12カ国の419人におよんだ。法廷での様々な証拠や証言により、国民に戦争の実態が明らかにされた。中国・南京であった日本軍による一般人虐殺について、被告席で生々しい証言を聞いた元外相、重光葵(まもる)は「醜態耳を蔽(おお)はしむ。日本魂腐れるか」と心境を日記に記している。

 サンフランシスコ講和条約の調印・発効によって、52年4月に連合国による日本占領が終わり、日本は独立を回復した。条約には、日本が東京裁判を受諾することと刑を引き続き執行することが盛り込まれた。

 ■反応 国民に不公平感も

 安保法制を審議する衆院特別委員会で昨年6月、東京裁判の評価が議論になった。「勝者の判断で断罪がなされた」と、かつて裁判に批判的な発言をした安倍晋三首相に野党が認識を問うと、「我が国は判決を受諾しており異議を唱える立場にない」との見解をくり返した。

 受け入れと反発が同居する感情は、日本社会に広く見られる。戦後10年、1955年に政府が行った世論調査では、指導者の処罰を19%が「当然だ」、66%が「仕方がない」と考えると同時に、63%が「ひどすぎた」と答えた。悲惨な戦禍を招いた指導者への裁判は国民にとって受け入れやすかった半面、勝者である連合国による原爆投下や空襲が裁かれなかったことへの不公平感も募っていた。

 講和が成立して占領が終わると、「侵略の定義は困難」として被告全員の無罪を主張したインドの判事、パルの反対意見が「日本無罪論」として出版され、歴史修正主義的な主張の源流となった。裁判に対する評価は、日本の戦争が侵略だったかという論争と結びつき、政治の左右対立のなかで語られるようになった。

 78年には靖国神社A級戦犯を合祀(ごうし)。85年、中曽根康弘首相が同神社を公式参拝すると、中国や韓国などが批判。それが更に国内の右派の反発を呼んだ。戦後50年の95年に、村山富市首相が「植民地支配と侵略に対するおわび」を談話で表明すると、右派が「東京裁判史観」「自虐史観」と批判した。

 2000年以降も小泉純一郎首相が靖国を参拝。安倍首相も第2次政権の13年に参拝した。

 ■アジア・植民地の被害軽視 吉田裕・一橋大教授(日本近現代史

 東京裁判は米英の被害に比べ、戦場や植民地となったアジアの被害を軽視した。軍部を罰したが、昭和天皇は起訴されなかった。戦争責任の問題は国民に深く受け止められず先送りされた。

 それでも戦争を知る世代は、政治家も国民も中国や朝鮮半島への後ろめたさを共有していた。今は直接の当事者でない戦後世代が未解決の問題と向き合うことになり、国内に戸惑いや反発が生じている。

 世論調査などで、先の大戦を「やむを得ない戦争」と考える人が増え、昨年の「安倍談話」では「次世代に謝罪を背負わせない」という訴えが歓迎された。背景には歴史の忘却がある。

 海外に対しては一定の反省の姿勢を示すが、国内では反発を繰り返す歴史観ダブルスタンダードが拡大している。現天皇が戦地を何度も訪れ、相手国の戦没者も含めて追悼を続けるのと対照的だ。

 ■功と罪、両方受け止め必要 日暮吉延・帝京大教授(日本政治外交史)

 東京裁判は第2次世界大戦の評価をめぐって、戦後の右派・左派の思想的分断の原点となり、いまだに冷静な議論は難しい。現在は中国の台頭や靖国問題でアジアの反発が強まるなか、むしろ裁判を全否定する「勝者の裁き」論が目立つようになっている。

 確かに裁判は欠陥だらけだった。だが、否定論一点張りだと、判決を受諾して国際社会に復帰したサンフランシスコ講和条約の否認につながり、非現実的だ。

 東京裁判でも、膨大な歴史資料を集めた点、戦争責任のけじめをつけたことで対米協調への転換を容易にした点などはプラス面として評価できる。

 敗戦国として責任追及は不可避だったし、占領下という特殊な環境で行われたことを考えると、「冷厳な国際政治の結果」と割り切ることも一案だ。まずは裁判の功と罪を両方とも受けとめることが必要だろう。

 ◆東郷隆、藤井裕介、西本秀、藤原秀人、三浦俊章が担当しました。次回は6月に掲載します。
    −−「戦後の原点:東京裁判:上 裁かれた日本の戦争犯罪」、『朝日新聞』2016年05月02日(月)付。

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